10日9:09分、耳成山頂で足固め
樹木に覆われていて展望はほとんどききません
9:19分下山
耳無井(大師井戸):平安時代、空海により掘られた
陸軍の大演習の時、明治天皇が御飲水為されたという。清冷甘美とある
「耳無の池しうらめし吾妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ」
耳無の池は恨めしい、あの娘がさ迷ってきて水に入ったなら水が涸れて死ねないようにしてくれればよかった
逆さ耳成山
耳成山の麓に住むかずらこという美女が3人の男性から求婚され悩んだ末、池に投身することにより男の間の争いをさけたという。残された3人はそれを悲しみ作った歌です
醍醐町環濠趾:大和盆地の村落は鎌倉時代から室町時代にかけて、時には不当・過酷な支配者がらの要求に反発したり、地方豪族等の争いを避けるため、次第に自衛の手段を講じ百姓仕事の傍ら武装体制をとるようになった
全村民協力して村落の周辺に二間幅位の溝を掘り、内側に土居を盛り上げて竹木を植え外部からの侵入を防いだ
望遠で耳成山をとらえる藤原宮海犬養門(あめのいぬかいもん)趾:藤原宮都の建設は壬申の乱の後、天武天皇の時代から計画推進されていたが、宮殿の完成を待って遷都が行われたのは、今から1300年前の持統天皇8年(694)12月のことである
中国洛陽の都城のプランをかり、条里制を採ったわが国最初の都市で、大和三山の間に南面し、その中心の藤原宮は都の中央よりやや北にあり、内裡・儀式殿と諸官庁の中枢を置き、内外二重の濠と大垣に囲まれている
宮の四方には各三門があり、現在そのうち北面西辺の海犬養門に相当し、小川の中の二大石はその礎石と考えられている
なお醍醐町は宮域地では最も土地が低く、周濠の水を集めた西北辺からは濠趾と木簡が出土している







