10月14日、南山城・補陀洛山「海住山寺」

この世界に至る道が、いわゆる菩薩道(自他ともに真実の智慧に目覚め、生きとし生けるものを慈しむ慈悲を行ずる道)にほかなりません

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解脱上人は、この山をこうした菩薩道実践の場所と定めて、観音浄土に因んで海住山と名づけられました
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瓶原の平野と、その彼方に連なる山なみは、あたかも南海の洋上に浮かぶ補陀洛山の如くであり、とりわけ曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くして、いみじくも海住山寺と名づけたものかとさえ思われます

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解脱上人貞慶(1155~1213)は左少弁藤原貞憲の子で、幼くして興福寺に入り、覚憲に師事してひたすら研学につとめ、維摩会・最勝会の講師までも歴任した南都仏教界随一の学僧であった

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身を慎むこと厳しく、壮年に至り感ずるところあって笠置山に隠れ、名利をのがれてもっぱら徳を積まれた方でありましたが、晩年その心境がいっそう光るにつれて
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人々を教化して仏道に向かわしめるために、この海住山寺に移り住まれたのであります
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上人は弟子たちに「富勢名誉を望むは自己継承の人に非ず」と常に教えて戒律を厳かにし、当山の草庵に移られてからも、戒律復興の為、南都興福寺の山内に常喜院をもうけて律学の道場とされております
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この常喜院からは、後に西大寺の興正菩薩叡尊や唐招提寺の大悲菩薩覚盛など優れた高僧が輩出し、目覚ましい活躍をされています
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上人には「唯識論尋思鈔」・「法相宗初心略要」・「法華開示抄」など当時の仏教学の最高水準を行く幾多の著述がありますが、その深い内省と厳しい求道を物語る書に「愚迷発心集」があって、読む人の衿を正させます
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法然上人が浄土宗を開かれた時、その徒の中には教えを誤り風儀を乱す者がありましたので、これを憂えて「興福寺奏状」を起草したのも上人であったと伝えられております
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かかる世にたぐい稀な学徳兼備の高層解脱上人の衣鉢を継いだのは、慈心上人覚心上人(藤原長房、1170~1243)でありました
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覚心は、後鳥羽上皇の側近でありましたが、当山で出家し先師の遺志をうけていよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力を尽くしました
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現存の五重塔は、健保2年(1214)、先師一周忌の供養に際して解脱上人が後鳥羽院から拝領した東寺、唐招提寺の仏舎利を納めるために覚真が完成させたものであり、小さいながらも良くととのい、特に心柱が初層で止められている点は建築史上有名であります

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