蒲生氏郷が天正16年(1588)、四五百森(よいほのもり)に築城した平城
山彦耀のブログ
氏郷が陸奥黒川(会津若松市)へ移封後、天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)に古田重勝と城主が変わり、元和5年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降明治になるまで勢州領18万石を統轄する城代が置かれてきた
山彦耀のブログ
北に大手門、南に搦手門、本丸・二の丸・三の丸・隠居丸からなる
山彦耀のブログ

三層の天守と金の間・月見・太鼓など櫓が聳え立っていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられている

山彦耀のブログ
蒲生氏郷は29歳の若さで松ヶ島城主となり四五百森一帯の地の利に着目し築城を進めた
山彦耀のブログ
天正16年8月入城し、この町を松阪と命名し、楽市楽座、街道の整備、商人の誘致など生新、画期的な政策を以って発展の基礎を固めた
山彦耀のブログ

二の丸にある柴藤

樹齢三百数十年、藤棚面積346平方メートル(105坪)

山彦耀のブログ

主幹周囲は5mで開花期は4月下旬紫色の花房が1mあまりになるという

宇治平等院の藤棚とどっちが大きいだろう?山彦耀のブログ

花の香り高く松坂の名木として市民に親しまれている

山彦耀のブログ
近江日野からこの地に赴任し、わずか数年で会津若松に転封となったが、城下町松阪は江戸時代に見事に開花し商都松坂として結実を見た
山彦耀のブログ
文武に通じ、経世に優れた氏郷は歌を能くし、茶道は千利休七哲の一人として高名であり、戦国屈指の名将であった
山彦耀のブログ