平安初期、大師と共に仏教界の二大明星と称された弘法大師(774~835)は最澄と同じく遣唐使として入唐した
両師の交流は、大同4年(809)に弘法大師が比叡山に登ってこられたのに始まる。その後しばらく親密な関係が続いたが、弘法大師の真言密教至上主義は伝教大師の法華一乗の立場とは、思想的に相容れないものであった
弘仁9年(818)52歳の春、大師はついに自らの小乗の戒律をすて、もっぱらの大乗戒によることを宣言された続いて「一隅を照らす」国宝的人材の育成を眼目とする「山家学生式」を定め、比叡山の学生の行動基準を法華経の精神に基づく自利利他の大乗仏教に求めることとされた
大師入滅の翌弘仁14年2月26日、大師の最大の理解者であり、かつ天台宗を勅許された桓武天皇ゆかりの年号「延暦寺」を寺号とする勅額が下され、「比叡山寺」を改めて「延暦寺」と称することとなった
くだって45年後の貞観8年(866)には、ときの清和天皇より伝教大師の諡を賜った
その後比叡山からは、後世鎌倉新仏教各宗の祖師が輩出し、日本大乗仏教の母山として栄え、大師の余光は滅後1150年以上経った今日なお燦然と輝いている
比叡山は先に紹介した横川中堂と
東塔:根本中堂があり、1200年守り継がれた「不滅の法灯」が光輝いています。大講堂、戒壇院、文殊楼、法華總持院、阿弥陀堂など重要な堂塔が多く集まっている
西塔:釈迦堂はじめ伝教大師の御廟である浄土院や「弁慶のにない堂」と呼ばれる常行堂と法華堂、法然上人の御修業の旧跡地青龍寺、坐禅止観が体験できる居士林などがある
吉川英治「新平家物語」の解説
文殊楼への長い階段でトレーニングするT・K氏









