比叡山の東麓・坂本には後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した三津首の一族が久しく栄えていた
神護景雲元年(767)8月18日、坂本地に蓮華の花がふり、めでたいしるしがあらわれ、おりしも三津首百枝公の家に玉のような男の子が生まれた。天台宗比叡山の開祖となる伝教大師最澄上人であった
延暦寺バスセンター(根本中堂)行きのシャトルバスを待つ
比叡山内一日フリー乗車券(大人800円)
伝教大師の幼名は広野といい神童の誉れ高く、しかも敬虔な心の持ち主であった。7歳の小学に学んだところ、一を聞いて十を知る才能を発揮、ほぼすべての学芸を修め村人の師範と仰がれた
とくに仏道には早くから篤かったという
根本中堂前のバス停で下車し2班に分かれた
1班は坂本へ下る。希望者を募ったところ予想に反して人数が多かった
12歳の時、近江国分寺の大国師行表法師の門に入ることとなり、両親の元を離れ出家しました
15歳で得度し名を最澄と改めました
奈良の仏教の実情をつぶさにみて、清らかな山林こそ真の仏道の行われるべき所であると痛感し、延暦4年(785)7月に坂本に戻り、比叡山に登り山中に小さな庵を結んで、毎日大乗経を読誦し、ひたすら坐禅瞑想に努め一心に修行されました
あるとき、庵の北の峰に、昼は紫の雲がたなびき夜には白い光が立ち上るのが見えるので、不思議に思って訪ね行くと香気のある古木が見つかった
それは仙人たちがお譲りする霊木であった。大師は早速身を清めて一刀三礼のもと、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体の仏像をお刻みになった
延暦7年(788)には比叡山寺(一乗止観院・現在の根本中堂)を創建し、「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我立杣に冥加あらせたまへ」と祈られ、御自作の薬師如来を本尊とし、その御前に永代不滅の常燈明を手づから供えて、「明けらく後の仏の御代まで光つたえよ法のともしび」と詠ぜられた
この日、根本中堂では年に一度の御修会(みしほ)法要が行われており、参加者一同御本尊様に手を合わせお参りしました
根本中堂前で写しました
夕陽が差し込んだのでもう一枚
法の力と太陽の恵みをいっぱい授かりました






