壇ノ浦合戦後、時忠は捕虜となって帰洛し、極刑にされるところを、神器の護持は自分の功績だ、と言い立てて流罪に軽減された
(平屋とはいえ天井は高い)
しかし、そのまま京都に居座り、義経の衆望を利用して自らの活路を切り開こうと画策したので、旧勢力の復活を嫌悪する頼朝は、直ちに能登へ配流した時国家は昭和38年7月重要文化財に指定された。その説明文によると、時国家は平時国の末裔と伝え、中世以来この地方に強大な家柄を誇った家柄で現在は上下両家に分かれている
(見事な欄間)
この住宅は下時国家のものであって、建設年代」についてよるべき資料を欠くが、ほぼ江戸時代中期末の頃に立てられたと考えられる能登地方には、北陸一般の通例に従って、いわゆる広間型平面が分布しているか、背面の部屋が発達して整型に近い型をなすもの、及びさらに発展して、前面に一列を加えて三列とするものなどが見受けられる
(南面の庭園)
時国家住宅も三列の例であって、中列にある茶の間を中心とし、北側に納戸及び土間に突き出した大広間(勝手)をとり、南側は式台から入って客室3室がある
(床の間には琵琶が置かれている)
客室は面皮柱を用い、床・棚・書院を構えている
一方茶の間その他の居室部分は民家としての特徴をそなえ、しかも帳台構の痕跡を残していることなどから古式もうかがわれる
(書画)(仏間)








