1月3日、米寿の父と時国家を訪ねた
山友人のY・T氏のルーツを確認するために、2日に吉祥寺、3日に大谷・則貞・時国家と足を運んだ
時国家の初代は文治元年(1185)能登に配流された平大納言時忠公。下時国家は13代当主藤左衛門時保が、二重支配を逃れる為、加賀藩領に居を構えたところから
近くを流れる町野川の下流側に位置するところから「下時国家」とも呼ばれている。邸宅は昭和38年に国の重要文化財に指定され、平成13年には庭園が国の名勝庭園に指定されました
(200m程南にある上時国家)
寛永11年(1634)藤左衛門時保は時国家を2家に分立し、下時国家は加賀藩領の時国家となり、江戸時代を通して山廻り役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役などの藩の役職を代々引き継ぐとともに、農業、塩業、廻船業を営みました
(上時国家の山門)
当家には重要文化財の邸宅と名勝の庭園があります
邸宅の構造は、木造平屋建て、間口13間、総面積108坪、茅葺入母屋造り
大木戸を入ると40坪の土間があり1尺5寸角の太い大黒柱や巨大な梁組みは豪快で古い様式の生活をしのばせる。また特異な部分として屋根裏に「かくし部屋」があります
庭園は2000坪の広さで、山裾の地形を活かしており、広間に面する表庭は枯滝や池、キリシマツツジなど落ち着きのある地域性豊かな庭園です時忠は、同じ平氏でも公家化した家系であった。姉の時子は清盛の正室となり、宗盛、知盛、重衡、さらに高倉天皇の中宮となった徳子(建礼門院)を生んだ。もう一人の姉妹滋子(建春門院)は後白河院の後宮に入り高倉天皇を生んでいる
清盛、後白河の小舅であり平氏一門の重要人物として、時忠の得意や思うべしである
承安4年(1174)、濡従2位に昇り“平関白”と畏れられた
(囲炉裏を囲んで説明して下さいました)
その人たるや。胆智にすぐれ縦横奇才を揮ったというが、「愚管抄」では「サカシキコトノミシテ、タビタビナガサレナンドシタリシ者」と、時忠の軽挙妄動を咎めているこれはかなり珍しいものであると説明をされていました
波の上に鯛が舞い天にも届かんとしている姿









