迎春
生かされている命、めぐってきたチャンスを生かそう
剱岳は古来、立山修験と呼ばれる山岳信仰の対象であり雄山神社の祭神の一柱である天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の神体として信仰を集めてきた
10月9日・13:52分、雷鳥坂から浄土山の展望
一方、立山信仰では「針山地獄」とされ立山連峰の頂から参拝する山であって、登ることが許されなかった
極楽寺・大岩・大山田村・伊折・蓬沢
この頃に山岳会新潟県支部が蓬沢で人夫を雇い毛勝ち谷から剱岳に登るとの情報が入る
立山三山の麗姿
日本百名山の著者・深田久弥は万葉集に見える立山について、これは今の立山ではなく剱岳のことであろうと自説を書いている
キワラ谷・別山尾根・東大谷乗越・剱御前2776m・剱沢・一服剱・前剱岳・武蔵谷
前剱岳に登った時には気圧計は740ミリを指していた
立山川の上流東大谷から吹上てくる風が武蔵谷に吹き抜ける際に収斂現象を起こしてすこぶる風の強いところだった。遭難の恐れがあり天幕をたたんで剱沢に降りた
雷鳥沢から御前峰を仰ぎ見る
弘法大師が草鞋千足を費やしても登頂できなかったという伝説がある。近代登山としての歴史は浅いが、古くから不動明王として崇拝され、信仰の対象として修験者に登られていた明確な記録に残る初登頂は、陸軍参謀本部陸地測量部の測量官・柴崎芳太郎麾下の測量隊によるもの
明治40年(1907)7月13日、測量隊の測夫・生田信らが長次郎雪渓ルートから本峰の登頂に成功した
雷鳥沢から見る浄土山
同月28日、柴崎芳太郎本人も登頂、平成19年に四等覘標高程手簿が発見され、柴崎の登頂日が明らかになった柴崎隊以前に数例の登山の記録や伝説・口碑が存在する。生田らによる最初の登頂の際、錆びついた鉄剣と銅製の錫杖が発見された
別山から真砂岳の稜線
これらの遺物は当時の鑑定では奈良時代の後半から平安時代の初期にかけて登頂した修験者のものと考えられていた山頂近くの岩屋には古い焚火跡もあったという。これらは立山修験の貴重な証として重要文化財に指定され、柴崎の死後、遺族から寄贈されて立山町芦峅寺の立山博物館に展示されている
三等三角点設定予定地には測量旗が立てられた
別山尾根
剱岳点の記&ウィキペディアより








