柴崎芳太郎は、陸地測量部の玉井班長に「山岳会と競争しろというのですか」と尋ねた
「そうは云わないが、負けたくはない。おそらく君もそう思うだろう。それならば、どうしたらいいかは君が考えることだ。兎に角来年は、君が全責任を背負って、立山を中心とする四キロ平方の三等三角点を完成するために、行かねばならないのだ」
明治40年8月12日付けの東京日日新聞によると、陸地測量事業と題して次のような記事がある
我が陸軍の陸地測量事業は、日清戦役後即ち明治28年より第1期事業を開始し、同31年に至りて大体の測量を了り、同32年第2期の事業を開始して日露戦役前、即ち37年を以って略之を完成
「そうは云わないが、負けたくはない。おそらく君もそう思うだろう。それならば、どうしたらいいかは君が考えることだ。兎に角来年は、君が全責任を背負って、立山を中心とする四キロ平方の三等三角点を完成するために、行かねばならないのだ」
明治40年8月12日付けの東京日日新聞によると、陸地測量事業と題して次のような記事がある
我が陸軍の陸地測量事業は、日清戦役後即ち明治28年より第1期事業を開始し、同31年に至りて大体の測量を了り、同32年第2期の事業を開始して日露戦役前、即ち37年を以って略之を完成
同38年より第3期計画事業を開始して今日に至れるが、本期はきたる42年を以って一先ず終了し、更に43年度より第4期計画実行の筈なり
ダブルフィッシャマンノート結びのザイル
この新聞記事によると、明治39年は第3期計画に入ったばかりの年であったようである仙人峠を越え少し下ると、眼下に平ノ池(剱池)が見えた
暫くして柴崎芳太郎は陸地測量部を退官した古田盛作を訪ねる
古田盛作は三角科の主と言われた人であった。内務省地理局測量科時代から、参謀本部測量局、そして陸地測量部と、ずっと測量に携わってきた人である
彼の手による一等三角点、二等三角点は多かった
特に信濃、越中方面の高い山には彼の足跡が数多く残されていた
越中剱岳の下見に行けと云われたのであなたの意見を訊きに来ました
そうーいよいよ剱岳をやるのか、それは大変なことだ
剱岳点の記より








