本日のモーニングセミナーに、東日本大震災で被災され現在、大阪府堺市に住まれている「福島民話の語り部・吉川裕子氏」が<歯形の栗>と題して講話されました

感動を書き記したく要旨を掲載いたします

本題に入る前に、朝食会でのスピーチを紹介いたします

山彦耀のブログ

・来阪した当初、周りから「頑張ってください!」と言われた時、これ以上何を頑張れというのや!と、思った

そのうち、「一緒に頑張りましょう!」と言われた時は素直に受け入れられた、というような内容の話をされました。被災された方々の痛みを理解しようとするなら、ちょっとした言葉の配慮が必要なのだと思いました

<歯形の栗>というテーマで約45分程話をされました。要点をご紹介させて頂きます

・福島県浪江町で被災され、大阪府が被災者を受け入れていることを聞き来阪、現在は堺市在住

・開会5分前には全員が揃われ、姿勢をただし静かに開会を待つ姿に元気を頂きました(AM6:30分開会)

・3月11日、2万人が住む町の自宅で運営する託児所を地震が襲った。職員二人と乳幼児の世話をしていた。オルガンが倒れ、蛍光灯が落ち、子供が泣き出したが奇跡的に全員無事でした

水は止り、パトカーにはマスクをつけた署員が何台かに分乗している様子を見て、大変なことになっているんだと、と思った

家の中はぐちゃぐちゃで住める状態ではなく、子供たちを保護者に帰した後、夫と共に避難所に行きました

津波の被害にあわれた人達はコンクリートと借金だけが残った

・地元の人たちは4日経っても原発の報道がなく、私は娘からの電話で初めて東電・原発の爆発を知った(本当のことを知らせてもらえなかった)

・戻るところもない、こつこつ働いてきた土地、建てた家を離れ、避難するために郡山・会津にも行った。泊まるため旅館を8軒訪ねたが許可がないと泊められない(スクリーニングを受けた証明書が必要)。スクリーニングを受けるため会津へ行ったら16時で終了していた(人の心が現れる=緊急事態なのだから24時間体制でやって欲しかった)

皆で助け合わなければならない時に、上からの指示でございますと、断られた

外は吹雪いていて、孫を連れていたので旅館を探したが、1泊8000円のところ21000円だといわれた。4人で82000円も払えず、新潟へ向かう途中の東横インホテルで4泊した

・一旦、郡山へ帰った時、大阪が被災者を受け入れることを知ったが、本人が来ないと駄目だといわれ、千葉に住む息子の車で送ってもらうことに。しかしガソリンは1000円しか入れてもらえず思案していたら、満タンにしてもらった(神様はいるものだと思った)

・大阪府堺市の府営住宅に入ったが、暖房器具や浴槽がなく、トイレに紙がない、初日の夜は寒さと心細さで眠れませんでした。空腹に襲われ悲しかった

夫と「すぐに福島に帰っぺなあ」といったんは決めたが、

近くの女性に声をかけられ、事情を話すとストーブと毛布を届けてくれた。大変やったね、と背中をさすられ、張り詰めたいた気持ちが緩んだのか、涙があふれてきた

娘さんが手配してくれたビジネスホテルで飲んだ味噌汁が美味かった。その後、大阪府から借りた10万円で風呂を買った

・泉が丘の人と話しているうちに、持ってきた絣の着物を着て語り部をすることになった

関西はいい人ばかり、心が健康になって、ありがとう!ありがとう!と言っているうちに元気になった

・一度、福島の家に帰ったら家の中のものが無くなっていた。パチンコと居酒屋が流行っているようだった

帰宅したけど家で泊まることはできず避難所で寝た(食事ができるから)山彦耀のブログ

・10年前から始めた民話の語り部、私にできることはこれしかないと関西で始めることにした

浪江町に大きな栗の木があり、150年前の民話が残されている

ある農家の夫婦に“アキ”という娘がいた。病気で両親が一生懸命面倒を見たが、衰弱する一方であった。ある日“アキ”が栗が食べたいと言ったので、父親が木枯らしの吹く季節に栗なんか無いと思いつつ、へとへとになりながら栗を探して歩いていたら愛宕神社にたどり着いた。父親が手を合わせて拝んでいたら、リスが現れて父親の手のひらに3個の栗を手渡した

“アキ”は、この栗を食べたら、ニコッと笑って死んでいった

葬送にあたり棺に何も入れてあげることが出来なかったが、栗の実を手の中に持たせた

やがて、土葬の墓から栗の芽が出た。この栗の木の実には小さな歯形が付いている。他所で植えたものには歯形が付いたことはないという

私は語り部として話す前に必ず“アキ”の墓にお参りして、今日も話してくるがね、と言った

放射能で帰れなくなり、絶望的になり、うつ病になったが、大阪で世話になり、この地で恩返しをしよう、と思ったら元気になった

・生まれ育った浪江町は、自然豊かな土地で、近所の人たちとは昔から家族同然の付き合いをしてきた。自宅は原発から7kmしか離れていず放射線量も高く戻れる日が来るとは思えない

・すっかり人生が変わってしまったが、心の故郷は絶対忘れない。このまま関西人になってしまうのかな

大阪で「みちのくの会」をつくり東北の力になりたい、と締めくくられました

(この文章は録音をしたわけではなく、福島弁で聞き取りにくい点もあり、本人の真意と多少ずれるているかもしれませんがご了承願います)


※夕方、吉川さんと電話で話しました。関西では3000人の被災者がいる。経済基盤がなくて夫婦別れしたもの、東北と大阪の二重生活で困窮している人、自主避難で援助の得られない人たちが義捐を求めています

私は微力ですが、語り部として講演会に出向き、頂いた謝礼は全て支援の為に使わせて頂いている

関西の人たちは、東北に目を向けられがちですが、身近なところで困っている方々が沢山いらっしゃることも知って頂きたいのです。支援の手を差し伸べて頂きたい、と訴えておられました

皆様、被災された方々に手を差し伸べ、一緒に頑張ろうではありませんか!!