5月5日帰省の最後の日

兄に能登三井へ送ってもらう途中、能都町当目にある臼淵大尉顕彰碑を訪ねた

正月、敬愛するM・Aさんから中日新聞の社説を見せられ初めて臼淵大尉の存在を知り、一度訪ねたいと思っていた

失われて久しい大和魂が、今回の大震災を機に取り戻しつつある

日本復興に向けて是非読んでいただきたい。繰り返し、繰り返し、何度でも

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臼淵海軍大尉は「大和」副砲射撃指揮官として特攻の意義について士官の間で議論が起こったとき、この石碑の言葉を述べ乗組員の心を一つにした

父の臼淵清忠の生家。今は跡地だけがのこり、顕彰碑が立てられている

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昭和20年4月戦艦大和は僚艦9隻とともに、沖縄特攻の命を受け出撃の途上、米軍艦載機の襲撃により九州南西海上で沈没した

司令長官・伊藤整一中将、大和艦長・有賀幸作大佐以下3000余名が艦と運命を共にし、生存者は一割にも満たぬ悲惨な結末となりました

「日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか」

出撃直前、絶望的敗北を予感した「大和」の若い士官たちは、特攻の意義について煩悶と苦悩に、激しい論争を引き起こし、あわや乱闘になろうとしたとき、士官次室の室長兼副砲射撃指揮官の臼淵大尉がこれを制止し「敗れて目覚める、それ以外に日本が救われる道はない」

俺たちはその先導となって、新生日本のさきがけとなって散る。まさに本望じゃないか、と顕彰碑に刻まれた言葉を諭すような口調で語りかけ、いきり立つ士官次室の空気を鎮めた、という

屋敷の外れに墓があり、末裔である女性に話を伺いました

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臼淵大尉は戦闘開始直後、後部副砲射撃指揮所を襲った直撃弾により、一片の遺品をも留めず、壮烈な戦死を遂げました(戦死後少佐に累進)

戦後「大和」の数少ない生還者の一人、吉田満氏は、その著書「戦艦大和の最期」で臼淵大尉について次のように書いている

「彼、兵学校71期出身ノ俊秀ナリ。艦内切ッテノ剛勇、総員ノ士気ヲ掌握セルモ、一面人情厚ク人生談義ヲ好ム」山彦耀のブログ

<臼淵大尉は能登ゆかりの先覚者>

臼淵大尉は海軍士官の長男として東京で生まれました

父、清忠氏は能登町当目の出身。祖父は当地で医者をしていた。地元の小学校を卒業して舞鶴の海軍機関学校に入学、卒業後航空科の教育を受け、海軍大学校を卒業した逸材でした

早くから航空の重要性を説き、「国防ノ根拠ハ空軍ニアリ」と、近い将来戦の主力は飛行機の時代が来る、と予見しました

臼淵父子は優れた識見を後世に示しました

(臼淵磐:大正12年・関東大震災の年生まれ。昭和20年4月戦死、わずか22年の生涯を日本の後進の為に捧げられました)