「御廟年経て忍は何をしのぶ草」
10日、吉野山桜ウォーク
後醍醐天皇が眠る如意輪寺の桜
如意輪寺は、塔尾山椿花院という
中千本の桜木の間、緑の松柏峰に連なれ山腹にある
楠正行が四条畷の決戦へ出発に当たり、如意輪寺の扉に記した辞世の句
「かゑらじとかねておもえば梓弓なき数に入る名をぞと思う」・・・正行23歳の句
「延元の帝のみあしふましけむ山柿赤くつぶれたるこのみち」・・・尾山篤次郎句
後醍醐天皇自作の木造が安置されている
元弘3年専横の北条幕府を倒し、建武中奥を成し遂げた後醍醐天皇は足利氏との争いのため京都を逃れ、延元元年吉野へ行幸、以来吉野行宮で過ごされた
延元4年天皇は病床につかれ「身はたとえ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天をのぞまん」と都をあこがれつつ崩御された
天皇の御遺骸をそのまんま当寺の裏山に葬られたのが塔尾陵である
次帝・後村上天皇の正平2年12月27日、楠正行の一族郎党143人が四条畷の決戦に向かうに当たり、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、髷を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を残し、最後に正行は鏃を持って御堂の扉に辞世の句を刻んだ
現在の如意輪寺は慶安3年の再建
ここでもラガーマンとマネージャーの女子が天皇陵の階段を駆け上った
人ごみの中で鯉幟は良く目立った
山門は2か所あり、南側の山門
吉野には山桜が似合う
香雲靉靆たる桜花














