敬虔な信者により寄進された神明型鳥居。昔はもちろん女人禁制
女人禁制:吉野熊野地方が発祥の地。男子が上らんと欲すれば、肉欲色欲を絶ち、求むるところを遂ぐ、として古くから海外にも知られていた。
山々を領していたのは山伏で、真言・天台の僧になるか、山を下りるか迫られた
修験道の開祖は役小角で、苦行30年修業し、日本古来の神々と仏教を合成した神仏一体の修験道を創始した役小角は699年、讒によって伊豆島に流されたが、701年赦免となる。超人的な能力で開山した山岳は全国に無数にある
玉石社を過ぎると分岐があり、左に採った
山上に祠があり沖見地蔵尊が安置されていた熊野から吉野に向かって峰入りすることを順峰、吉野から熊野へ向かうを逆峰と称した。役行者が熊野から吉野へ向かって先人未踏の深山を通過したとの伝説による
玉石社
その後、熊野からの山路が荒れて通行が出来なくなり、三宝院の聖宝が、896年宇多天皇の勅許で吉野から熊野への入峰路を新たに開設した
修験道は山岳を道場として修業する山伏。山がなければ行場を得られない。諸国に散在する名山に入峰して修業した。これを国峰道場と称した
これに対し、大峯・葛城・富士を根本道場といい、国峰道場の7回が根本道場の3回に当たると格付けされていたらしい
室町時代から江戸時代には、役行者の苦行を体得しようとして全国から大峯に入峰する者が多かったようだ
大峯修業は、吉野山から玉置まで山路45km、熊野新宮、那智の滝、熊野本宮で終わる。熊野本宮を一番とし、吉野川六田の柳の宿の結願所を75番として、75の行場が配されている。これを七十五靡という
靡きとは熊野から吉野への峰筋を指し、宗祖・役行者の法力で草木もなびくの意味だという・・・(山の民族参考)










