今回も素晴らしい出会いを頂いた。山を下ると登山口まで車で送って下さったH・Yさんが出迎え、コーヒまで淹れて下さいました。また、母公堂守を務められて4年目の青木健一さん(写真)が堂内の案内と説明をして下さいました。
堂内にはお像が7体収められていて、中央に白専女(しらとうめ・役の行者の母上様)両隣に役の行者と理源大師、さらに両隣には弘法大師と不動明王、そして地蔵尊と飯綱大権現。なぜ、母の像が中央に安置されているか?母公堂は誰が建て今に受け継がれているか?この話を聞いて感動を禁じ得なかった。
大峯の山に篭り日夜修行に励む役の小角(えんのおづの)の身を案じて葛城の茅原から小角の母がはるばるこの地まで訪ねて来ました。洞川の里から半里ほど上がった所にある谷に差し掛かり、渡ろうとすると一匹の大蛇がドグロを巻いて行く手を遮りました。3度も4度も渡ろうと試みましたが大蛇は長い蛇身を一杯に伸ばし行く手を塞ぎました。諦めて洞川の里に引き返し、山に向かって手を合わせ小角の無事を祈りました。すると一条の光が輝き「阿弥陀如来」が現れ、「母君よ、小角の身を案じる気持はよく分かります。ありがとう。されど心配することはありません。小角はもうただの修験者ではありません。仏の化身となって衆生を救わんがために霊威感得の地としてこの山に金剛蔵王権現を祀り修験道を開創しようと一心に練行しているのです。修業が終わるまで山へ入ってななりません。小角が下山するまで里の人々を助け仲良くして待ちなさい」と告げると光の中へ消えて行きました。母君と弟子の後鬼は谷を渡らせずに山に上らせなかった大蛇はきっと「八大龍王」の化身であったのだと思いました。母公はこの谷の岸に庵をつくり、里の人々に仏の教えを説きながら里の女の出産を助けたりしました。以来この谷を蛇ヶ谷と呼び女人禁制の結界と定められました。その後、天川村の人々がこの庵跡に堂守を建立し母公堂と呼んで母公を祀り、今日まで受け継いで来られました。
続日本書紀によると、役の行者(歴史上の最初の山伏)は699年に伊豆大島に流罪とある。「登る日を 受けて輝く 富士の山」
古い中国の史書で、後晋の開運2年(945年)から後周の顧徳元年(954年)に僧の義楚によって記された「義楚六帖」によれば、「日本国の都の南、五百余里に金峯山有り頂上に金剛蔵王菩薩あり、第一の霊威なり、山に松桧名花軟草あり、大小の寺百あり、節行高道の者これに居す。かって、女人ありて登ることを得ず。今に至りて男子上らんと欲すれば三か月酒肉欲色を絶つ。曰く菩薩はこれ弥勒の化身五台文殊の如し」。今から千年も前に中国にまで聞こえた金峯山の霊威は特筆すべきことで女人禁制が記されている事と、この伝説はなんらかの関わりがあり大峯山の神聖さを現わしています。
母公堂で青木堂守、H・Yさん、尼崎から来られていたSさん達と二時間も親しく会話させて頂き有意義なひと時を過ごすことが出来ました。心から感謝を申し上げます。
この後、我々は桧風呂で有名な洞川温泉で汗を流し、まったりとしたひと時を楽しみました。![]()
初めて山同行頂いた、R・Sさん(報道取材で世界の名峰や北極点、南極点を究められている)は「吉野は奥が深いですね」、とコメントされました。色々教えて頂き、大変勉強になりました。有難うございました(*^ー^)ノ