主催:山旅せらぴすtoあじポジティ部

「3月7日(土)。奈良盆地が一望できるスポットのひとつ水越峠ダイトレコースから、昭和10年終戦まで使った御所側の郵便屋さんの道を歩き、天孫降臨の伝説で名を残す高天彦神社にいたり、鶯宿梅を観る。」に参加してきました。リーダーの吉田智美さんの素晴らしい企画に感心し、参加者皆が感動を共有しました。

近鉄富田林から金剛バスで終点・水越峠バス停で降りる。広場で準備体操をして出発。

 
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ダイヤモンドトレール縦走路に出る。左・葛城山、右・金剛山の分岐に到着する。

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金剛の水飲み場に着く。滔々と流れる湧水に力を授かる。 


山彦耀のブログ 縦走路から大和平野が一望できるスポットが何箇所かある。霞んでいるが畝傍山、耳成山、天香具山、甘樫野丘、大和青垣が見渡せる。昨日の雨で道が少々ぬかるんでいる以外は好条件だ。

音譜ここでリーダーが一句披露合格

 「ひさかたの 天の香具山この夕(ゆふへ) 霞みたなびく 春立つらしも」

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縦走路にあるダイトレモニュメントで恒例の足固めを行う。何時ものことながら、美人揃いの素敵な笑顔をお見せできないのが誠に心残りだv(^-^)v足だけを写すからか、皆表情が和んでいるにひひ容姿は足の様子から想像して頂きたい!!
山彦耀のブログ 山彦耀のブログ-金剛山記念塔 金剛山頂の石塔

葛木神社本殿=今年3回目のお参り   樹齢500年の仁王杉            

山彦耀のブログ-葛木神社本殿 山彦耀のブログ-500年杉

樹齢100年から500年の杉の巨木が聳え立つ。

山彦耀のブログ-天に延びる杉

なぜ葛木神社に白馬が祀られているのか?
山彦耀のブログ-白馬

ブナの広場でシートを広げて昼食。リーダーがお湯を沸かし、熱いお茶を入れて下さる。体が温まる。皆に振舞われた蕗の薹味噌がなんとも美味しい。ブナ林の正面には葛城山が見渡せる恰好のスポットだ。気温は4度、10分も休んでいると体が冷えて来る。日蔭では霜柱が立っていた。

山彦耀のブログ-ブナ林から葛城山眺望

山を下っていると年配の登山者が声をかけてきた。聞けば山歴42年、全国の山を登ったという。今でも一旦家を出ると64日振りに帰宅することもあるという。写真のポーズは、熊と遭遇した時に見せるポーズだという。熊は自分より強いものは襲わない。杖を2本高く上げることで大きく見せる。眼は熊からはぐらかさない、そして利き手の杖で熊を威嚇すれば逃げるという。今までに3回遭遇し撃退したそうだ。猿は逆に目を合わさないことが大事だ、と教えて下さった。今は高天原でテント生活をして、毎日金剛山に登っているとのこと。小生が、なぜ山に登られるのですか?との問いに”そんなことは聞くなと仰いました”愚問に反省!高天原ではコーヒーと水を提供して下さった、リーダーがお湯を沸かして、暫しのコーヒー談義。氏は安部光信さん、大阪府在住74歳とのこと。仙人のような方でした。ご指導有難うございました!いつまでもお元気で登山を続けて下さい。後に続きますから!!

山彦耀のブログ-阿倍光信

郵便道を下った所に天が滝がある。昨日の雨で水かさがましていた。

山彦耀のブログ-天が滝

15分ほどで高天彦神社に着く。老杉の参道が出迎えてくれた。社殿の横に原住民を祀った大きな石にしめ縄が掛けられていた。写真に収めようとしたらリーダーから止められた。こういうところにも気がつく人なのだ。

山彦耀のブログ-白雲山 山彦耀のブログ-高天神社杉 ここが日本のルーツ、神話の里と呼ばれている高天原だ。背後にそびえる円錐形の白雲山が高天神社のご神体だ。神々との出会いを予感させるような神秘的な気が漂っている。

1.5km程離れた所に宝宥山・高天寺橋本院がある。44代元正天皇(715-724)の勅により行基が開いた。高天寺の一子院で始めは興福寺に所属した。のちに弘法大師の真言宗所属となる。45代聖武天皇も深く帰依し、中国より来た鑑真も高天寺の住職に任命したと言われるほどの格式の高い大寺院であった。金剛山転法輪寺7坊の一つとして、石寺、朝原寺、などとともに権威を誇った寺であった。また葛城修験宗の根本道場として、役の行者が修行した寺であった。本像十一面観音立像は木彫りで547センチの巨像で江戸時代に大修覆された。金箔の偉容を誇る観音で”生かせ命”の本尊として近郷の信仰を集めてきた。山彦耀のブログ-高天原史跡 山彦耀のブログ-高天寺・橋本院

橋本院本堂=「よってごとに、ききしその名も高天山、鳴くうぐいすは、声もみ法(のり)ぞ」

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2週間前に来た時、つぼみだった鶯宿梅も満開であった。

小生は高天寺橋本院へ行っていて見られなかったが、メンバーは鶯がこの木にとまっているところを見ることが出来たと、大そう感激していた。

「初啼きや 鶯宿梅に とまり来て 現世も来世も 変わらぬ梅香」・・・山彦 耀


山彦耀のブログ-満開の鶯宿梅 山彦耀のブログ-鶯宿梅

高天彦神社「御祭神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」。本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。神話では天照大神の御子天忍穂耳尊(あめのおしほみみみこと)に本社の御祭神の娘の𣑥幡千々姫命(たくはたちちひめ)が嫁がれ、その間にお生まれになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。その天孫降臨にあたって、国つ神の征伐に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話を申し上げたのであります。日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高間原」も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿が出来る以前はこの御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。彼等は背後に広がる広大な台地を神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。葛城族は弥生時代中期に現在の御所市柏原の地移って水稲農耕を始めました。そして葛城川流域の鴨族と手を組んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。日本書紀に腋上の嗛間の丘に登りまして、国の状を廻望(めぐらしおせ)りて、のたまわく・・・中略・・・

国号の秋津洲もこの地に最初の王朝が築かれたことに由来します。葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、9代で亡びますが、武内宿称によって復興し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元年(859年)に神位従2位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りには官幣にあずかってきた古社であります。金剛山は古く高天山と呼ばれましたがn中腹のこの広大な台地こそ日本人の心の故里「高天原」であり、神話も歴史もこの高天の台地を中心にして発展しました。悠久の歴史に心を馳せて、御神徳を授かるよう御祈念して下さい。宮司謹白、とありました。