★脳梗塞5日目で「延命」の可否選択を迫られた父のことを思う | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


★父の「鼻からチューブ」で考えたこと。延命の可否、軽々には決められない!
http://yuigonsouzoku.net/selection-of-tube-feeding2/



父は脳梗塞発症から5日目にして経鼻経管栄養法(鼻からチューブ)により「延命」をはかるかどうか、選択を迫られた。
私は楽観的に、どうしたらリハビリへ意欲を向けさせることができるか、というようなことばかり考えていたので、医師の提案は不意打ちに感じられた。


経管栄養を選択すると、父の場合は高齢でもあり、口からの飲食を回復することなく人工栄養で生かされ続けることになる可能性が高い。
どんな生き方(生かされ方)でも私は、「それは人間らしい人生とは言えない」などとは言わない。しかし自分がの場合なら、もし自分に選択権があるのなら、「それはご免だよ」と思っている。





だからと言って、自分がそんなに潔い、覚悟備わった人間でないことも知っている。たぶん迷うと思う。いやになるほど逡巡すると思う。
<父はたいへんだったなあ>
今さらながら、そう思っている。


●以下、本文から抜粋

鼻からチューブ(経鼻経管栄養法)や胃瘻造設が老人の延命のために使われている、という批判が一部にある。
これまでの私の認識もそのようなものだった。
そして今多くの人が、経管栄養は決してQOL(生活の質、充実した生)につながるものではなく、不必要な延命措置である──と考えるようになった。


その結果として、尊厳死宣言書や治療の事前指示書によって「不必要な延命を避ける(拒否する)」という動きも出てきている。
私もこれまでそのように考えてきたし、今も基本的には「自分の身に起きることなら、不必要な延命はしないでもらいたい」と考えている。
しかし母を見、父の新たな闘病に接するにつけ、<これは安易には決められない>と思ったし、<一度決めたことでも人間だから、前に後ろに何度でもグラつくことはあるだろう>と思うようになってきた。


終活、エンディングノートなどで、介護や医療の項目で「選択肢」が用意されているものをまま見かける。
その中には「尊厳死」の考え方を採りいれているノートもある。
しかし、その発想は「ノー」だ。
断じてうなずけない!