ひで坊の長浜→大津日記 -146ページ目

山越阿弥陀

山越阿弥陀は淳仁天皇
だった
ほぉ~なんと!?
つまりこうだ

中将姫が出家以来
亡くなった人々…
鑑真
藤原仲麻呂
淳仁天皇
藤原豊成
孝謙称徳
道鏡
日々その菩提を弔う姫

仲麻呂は父豊成の
実の弟で政敵だが
姫には優しかった
実の娘以上に…
姫にとっても
頼れるおじさんだった

その仲麻呂没の翌年に
かつての想い人
淳仁天皇が亡くなり
その翌月
右大臣の父豊成も
亡くなっている
波瀾万丈の父娘関係で
あった

淳仁天皇は一度だけ
當麻寺で綴織曼荼羅を
見ていた
仲麻呂の乱直前のことだ
その時
後宮に据えたかった
中将姫と曼荼羅を介して
再会する
愛よりも信仰をとった姫と悲劇の廃帝
忍び寄る永遠の別れは
すぐそこまで来ていた

そして翌年仲麻呂の乱
廃帝流罪…

それから
十年の歳月が流れ
日々日相観に明け暮れる姫の意識に
二上山の夕日と共に
淳仁天皇の面影が現れる

「ようやく迎えに来て
下さったのね」

淳仁天皇は配流先の
淡路島を逃れ
湖北須賀浦に身を寄せていた
いよいよ命脈が尽きる
刹那
中将姫の前に
山越阿弥陀のイメージと重なり合ってふたたび
再会する

そして2人共々
西方浄土へと
旅立つのであった…
時は華の天平時代の黄昏

う~ん
いかんいかん
ラストは折口信夫の
「死者の書」の
パクリになってしまったトンデモストーリー
じゃあないか

まっいいか
チャンチャン

中将姫&淳仁天皇

ここで整理しよう

中将姫ゆかりの
綴織曼荼羅が
完成したのが
763年(ナムサン)
姫17歳にて出家

藤原仲麻呂の乱が
764年(紫微令ナローヨ)

それ以前
淳仁天皇が即位したのが758年(ナゴヤで即位)淳仁25才のみぎり

中将姫が
内侍(四位中将)として天皇の側に出仕するのが
759年(ナ~イツクル)姫13才のみぎり

う~ん
この2人意外と絡むねえドラマ的には
廃帝として淡路に
流される淳仁天皇を
尼さんになった法如中将姫はどんな気持ちで
見送ったのか

別れのシーンの背景は
夕日の沈む二上山
しかあるまい
歴史のうねりに沈みゆく自らの出身
藤原南家とダブる

因みに中将姫極楽往生は775年(ナクナクゴクラク)享年29才
同年
井上内親王&他戸親王&吉備真備も亡くなっている
へェ~

當麻寺展

奈良国立博物館で開催の「當麻寺展」
昨日行ってきました
会期は今日まででしたので滑り込みセーフです
ひで坊の長浜日記-130601_1431~01.jpg

土曜日の割には人も少なくゆっくりじっくりと
見て回ることができました
やっぱり圧巻は浄土変相図「當麻曼荼羅文亀本」
と「當麻寺縁起」ですね

中将姫伝説と信仰が
卒論のテーマだった坊は
あの頃にこの展覧会が
あればなあと思いました

生の中将姫和讃や
曼荼羅絵解き説法が
大学の文化会館で行われそれを聞きに行っり
超満員の練り供養を見に行ったり(ほとんど見れず諦めましたが…)
…よい思い出です

どっしり重い図録と
「ならら」の中将姫特集号も買って
今日は「當麻寺」三昧

今回の大収穫は
ぬあんと
淳仁天皇が中将姫に求婚していた!
出典が明らかではないのですが調べてみる価値
ありです
「淳仁天皇物語」に
新たな展開か?
中将姫の親父である南家藤原豊成は藤原仲麻呂の同母兄ですからねぇ
豊成は仲麻呂に左遷されていますから
淳仁仲麻呂ラインとの
政略的な道具に使われたのか?中将姫
因みに淳仁天皇からの
求婚は出家願望を理由に断っています

お寺にもスタンプラリーに行きたかったのですが夜は京都で以前の勤め先仲間2人と久しぶりに
飲む約束がありましてね
そちらを優先です
飲み会では
昔話をしながら
坊の勤め先が吸収されることも話題に…
みんな頑張ろうや
↑飲み会の結論です

やっぱり今度當麻寺
何年ぶりだろう
行きたいねえ