ひで坊の長浜→大津日記 -122ページ目

淳仁天皇を探して

…謎を読み解くには
しばし時間がかかるは
必然…

ナローヨ「廃帝」
764年淳仁天皇退位

先立つ同年数ヶ月前に
仲麻呂湖西の地にて敗死

同年須賀神社の前身で
ある「保良神社」創祀

ん~この年
何かある何かが
1日単位の
出来事カレンダーを
作れば何か見えてくる
はずだ

平家に落ち武者伝説が
あるごとく
仲麻呂にも同様の
作り物語があったって
いいじゃんか
ネェ

なけりゃあ作ればいい
じゃんか
ネェ


淳仁天皇私見

…続けよう

まず結論ありき
淳仁天皇舟型陵とされる遺跡は
1910年(明治43年)に保良神社が地元の
2社と合祀された際
意図的に作られた
宗教的アトラクション
である
ひで坊の長浜日記-131013_1057~01.jpg
↑舟の舳先

舟型陵であるが
遺物がなさすぎる
学術的な発掘がなされていないこともある
舟型陵の石組みも
1200年の風雪に
耐えたようにも見えないこれは…陵墓では…ない古墳の年代測定に知見のない坊にでもわかる
ひで坊の長浜日記-131013_1059~01.jpg
仮にも元天皇だ
それなりの生活の痕跡
くらいあろう
それがない…全く

くわえて
こういう場合伝説の
一つや二つはあるはずだ例えば地元女性との
ラブロマンスとか…
逸話それすらもない

天皇号を改めて授かってから140年あまり
菅浦の地になかなか
淳仁天皇の実像は
浮かんでこない

かの地の民は歴史上の
敗者「廃帝」をなぜに
かくも長きに亘り御守りしてきたのか
その必然性は…

いや
ここでぶれてはいけない立ち位置の軸足を
踏みしめて考えろ

そうだ
舟型陵の下に
本当の御陵が隠されて
いるんだ
御陵の上に須賀神社は
建っているんだ

その必然は?
主が「廃帝」だからだ
歴史上の敗者を堂々と
お祀りできなかったんだ

ふぅ疲れた
想像しながら考えて
すこし立ち止まる

「必然性」をキーワードに淳仁天皇の生涯を
読み解けば新たな発見にたどり着きそうな予感
…しばし遊ぼう

淳仁天皇(祭)②

とにかく
謎だらけ…なんです

①淳仁天皇没年は765年です!没後即ご鎮座とすれば数えで来年が
鎮座1250年となる
今年が1250年なら
退位後即生前鎮座!
②淳仁天皇と追号されるのは1870年(明治3年)のこと
それ以前は「淡路廃帝」
諱は「大炊」
つまり1100式年祭の1863年(文久3年)はまだ淡路廃帝のまま
次の1913年(大正2年)から仮にも淳仁天皇祭と呼べるのです

…とここで正解が
導き出せるのです
つまりですね

淳仁天皇が孝謙称徳に
退位させられ流されたのは「淡路」ではなく
「淡海」
「淡路」に流されたのは影武者だった!
淳仁天皇本人が流れ着いた(逃げ延びた)のが
今の菅浦須賀神社あたり

ここに頓宮第2の「保良宮」を築いたんです
ですから764年退位年=配流年=鎮座年なんです

次回…
淳仁天皇舟型陵は
アトラクション?