【我執からの解放】アドラーとお釈迦様 | 伊丹のおくりびと

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伊丹市の幸せ創造企業 速水葬祭二代目創業者 速水英城です。
色んな所で様々な人々に支えられご縁を頂き毎日を過ごしています。
感謝を込めて綴ります。

今年の梅雨はカラ梅雨なのか
 
朝から青空が広がる伊丹の土曜日
 

 

今日は月に一度の常例法座の日

 

 
 
 
 
幾つか頂いたご法話からひとつ共有させていただきます。
 
 
 
 
題して
 
「アドラー心理学とお釈迦様」
 
 
 
 
浄土真宗のお寺の
 
35歳を迎えられた住職さんが
 
仏教の外に学びを求めて手にした
 
アドラーの心理学の書物から
 
「人間の悩みは全て対人関係の悩みである」
 
という一節を取り上げ
 
仏教における"悩み"と味わい比べてみる
 
仏教における悩みの根っこはご存知"煩悩"

その煩悩の根っこにあるのが"我執"

人間を人間たらしめるために必要な"自我への執着"
 
 
 
 
その執着心は身勝手な常識感になり
 
"ねばならない" "べきである" "はずである”と

他人を量るわがままな定規になる
 
その定規は時として自分自身を過去の常識や執着心に縛り付け
 
挙句   "悩む"  。
 
 
 
 
それでは
 
アドラーの言う"対人関係に拠る悩み"はどうだろう
 
 
 
 

お金がないと、他者に迷惑をかけることが辛くて悩み
 
病気になると家族や職場の仲間に迷惑をかけることが辛くて悩み
 
老いて身体が不自由になるにつれて家族に迷惑をかけたり


他者との関わりも少なくなってしまうと悩む
 

 

 
 
なるほど
 
やったことがないので解らないけど
 
ホームレスになると悩み事の質も変わりそうだな。。。
 
 
 
 
アドラーは言う
 
悩みを解消するには
 
「他人と対峙するのではなく
 
他人を仲間であり味方である」と考える事が大切だと。
 
 
 
お釈迦様曰く
 
「我執から心を解放することだ」と
 
そして親鸞曰く
 
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる」

(悪い本性はなかなか変わらない
それはあたかも蛇やさそりのようである
だからたとえどんなよい行いをしても
煩悩の毒がまじっているので
いつわりの行というものである)

 

 

もし私(住職)がお山に篭ってものすごい修行を納めると

 

自分自身が修行をした身だと思うだろう

 

頑張ったんだと思うだろう

 

頑張った分偉くなったと思ってしまうかもしれない

 

 

 

親鸞上人はその修行をも否定し

煩悩を抱えたそのままで往生できるんだと

 

大切なのは自分自身の中の煩悩を認め

 

如何なる時も煩悩の火を炎上させないように


"トロ火"の状態をキーブできるように努めることだと

 

それこそが仏教における中道の精神ではないでしょうか。

 

 

 

お金や物や健康など

 

ついつい人と比べてしまう定規で測れる事以外に

 

幸せだと思える事が大切なのではないでしょうか

 

 

 

戦後の経済的にものすごく発展しながら

 

先進国で稀に見る自殺の多い国になってる今の日本

 

「あの人たちは可哀想だ」と勝手に思い決め付けている

 

新興国の子供達より悩み多き日本人。

 

 

 

世界人口の半分が1日2ドル以下で暮らしていると

 

その人たちは貧困で可哀想だと裕福なふりをしている経済人

 

経済発展の果てに

 

自殺者が増え生きるため以外の殺人事件が増える

 

 

 

 

果たして幸せとは何なのか

 

今一度考えてみたいですね♪