世界的にインターネット記念日な昨日
自宅の近所のお寺さん
遍照寺さんの報恩講にお参りしてきました。
その報恩講で...
現代社会が抱えている
「社会全体が我執に振り回されている」という課題について
ニュースを読むと
サービスエリアで注意されたことに腹を立てて人を殺める
人に注意をされたことに腹を立てて相手を殺める
親の都合で子供に手をかける。。。
そんなニュースに触れて
加害者に対して腹をたてる自分がいる
腹を立てている時点で加害者と一緒。
人が腹を立てる時とは
「私」の正義にそぐわない時
「私」の常識にそぐわない時
「私」の定規にそぐわない時
腹をたてる時の根元に
「私」が正しくて
「私」が正しくて
「私」が正義で
「私」が常識だという思考がある。
ふむふむ。。
確かにそうだ
けど
僕は悲惨なニュースに触れた時
加害者に腹は立てるまえに
「なぜそうなんたんだろう」
「何が彼をそうさせたんだろう」
「どんな縁があって彼をそうあらしめたんだろう」
と思う。
と思う。
そして思い出したのが嘆異抄の十三条
またある時、「唯円房は我言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間
「さん候」と申し候いしかば
「さん候」と申し候いしかば
さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いしかば
さらば言わんとこと違うまじきか....
〜〜中略〜〜
たとえば人を千人殺してんや、
しからば往生は一定すべし」と仰せそう候いしとき
しからば往生は一定すべし」と仰せそう候いしとき
仰せにては候えども一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候
〜〜中略〜〜
わが心の善くて殺さぬにはあらず、
また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」仰せの候いしは
また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」仰せの候いしは
我らが心の善きをば善しと思い、悪しきことをば悪しと思いて
願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり
という行。
今の言い方にすれば
人を殺すのは人を殺すような縁にある時で
人を殺さずに居れてるのは人を殺すような縁にないだけ。
なのに人間は自分が善いだの悪いだの、自分自身の判断に捉われて
阿弥陀様の本願の不思議に助けられていることを忘れてるんちゃうか?
という意味だったと思う。
という意味だったと思う。
如何にして犯罪の縁から離れた所に身置くのか
もし不遇にも辛い縁に頂いた時に
我執に捉われずに判断できるのか
テレビの情報バラエティー番組を見て
犯人が悪いなど揶揄したり腹を立てている場合じゃない
本当は子供たちも交えて
「どうしてそうなったんだろう」
「どうすればそうならずにすむんだろう」
そんな話をしたいと思いました。
