和を以て貴しと為す
わしは長尾景虎(ながおかげとら)です。
鎌倉へ戻った上杉憲実(うえすぎのりざね)は早速、足利持氏(あしかがもちうじ)に会った。
鎌倉公方館跡
持氏「憲実、いい沙汰はもらえなかったようだな。」
既に京で足利義持(あしかがよしもち)の養子になれなかったことは持氏の知るところであった。
憲実「申し訳ございません。大御所様(義持のこと)は後継ぎのことは考えておらず…ただ公方様(持氏のこと)の申し出は胸の内に留めておくとおっしゃっておりました。」
足利義持像
義持さんは唯一の息子、義量(よしかず)さんが亡くなって後継ぎがいなかったんだよね
持氏「そうか…異母弟がたくさんいるのに決めないのは…。」
憲実「大御所様は心身共にお元気で新たな子をお望みなのでしょう。」
持氏「なるほど、確かに男子誕生の前に後継ぎを決めてしまうと争いの原因になることもある…。」
憲実「今は静観するのがよろしいかと…。」
持氏「うむ、わしの意図を大御所が胸の内に留めておくことを良しとしよう。」
憲実は内心、ホッとした。
持氏「ところで憲実は儒教や仏教の書籍を集めておったが、その後、どうなっておる?」
憲実「はい、かつて鎌倉期の北条実時(ほうじょうさねとき)公の集めた書籍を金沢の称名寺(しょうみょうじ)で立て直しております。」
現在の称名寺
持氏「足利庄でも書籍を集めておるとか?」
憲実「はい、足利庄ではかつて学びの場があったので。」
持氏「憲実、戦ばかり起きては人の心は荒む。正しい教えや書籍で良い人材を育成するのだ。わしも手助けをしよう。」
憲実は思いもよらぬ持氏の言葉に驚き、
憲実「殿!ありがとうございます!」
憲実は持氏は義持に劣らず、立派な器量の持ち主だと感動したのだ。
その後、憲実は足利庄や金沢の称名寺に行き、復興に勤しんだ。
応永35年(1428年)1月、驚くべき報せが京から入ってきた。
それは義持の逝去だった…。
つづく…








