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和を以て貴しと為す
わしは長尾景虎(ながおかげとら)です。
応永24年(1417年)1月10日、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)は鎌倉の雪ノ下で自害し、乱は収束した。
鎌倉公方、足利持氏(あしかがもちうじ)は鎌倉に帰還し、越後から出陣した関東管領、上杉憲基(うえすぎのりもと)や上杉房方(うえすぎふさかた)も鎌倉に入った。
房方さんは越後国の守護だね
鎌倉公方館跡
持氏は上機嫌だった。
持氏「憲基!よく越後の兵を連れて、よく戻ったぞ。」
憲基「はい、公方様もご無事でなり寄りです。」
持氏「房方、越後からの加勢、この持氏、頼もしく思うぞ。」
房方「なんの!鎌倉の平穏が越後のためにもなりまする。」
持氏「うむ…憲基、まだ禅秀に加担したものが関東に残っておる。これらを成敗せねばなるまい。」
憲基「まだ戦が続くのでごさいますか?」
持氏「当然だ、奴らは、また、わしに逆らうかもしれんからな。頼むぞ、憲基!」
憲基は笑う持氏を見ながら、浮かない表情をしていたのだ。
憲基と房方は公方館から出て、自らの館に戻ると、
憲基「伯父上、この後はどうされる?」
房方「公方様が禅秀の残党を討伐すると言っておられるが…もうしばらくは鎌倉に滞在しよう。」
憲基「かたじけない。残党討伐までお願いしまする。しかし、此度の勝ちは幕府からの命がなければ危うかった。」
房方「確かに。我らも幕命がなければ…ひとつ間違えれば、我らが討伐の対象になったかもしれんからな。」
憲基「関東管領という役目は幕府と公方様の調停でもありまする。此度、幕府が加担したのは足利義嗣(あしかがよしつぐ)様が禅秀と繋がっていたからであろうと…」
房方「うむ…それがなければ幕府の加担はなかったやもしれぬな。」
憲基「それが公方様は認めたくないのだ。頭の痛いところです。」
足利義嗣
幕府は義嗣を捕らえ幽閉し、出家させられて、応永25年(1418年)に将軍、足利義持(あしかがよしもち)の命で殺害されたのだ。
義嗣さんは3代将軍、義満(よしみつ)さんのお気に入りだったから加担する武将がいるかもしれないから、義持さんはそれを危惧していたんだね
持氏は禅秀に加担した残党の岩松満純(いわまつみつづみ)を討伐、さらに武田信満(たけだのぶみつ)を討伐…持氏の討伐は執拗であった。
ところが…
応永24年(1417年)4月、憲基は関東管領職を辞して剃髪したのだ…。
つづく…
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