和を以て貴しと為す
わしは長尾景虎(ながおかげとら)です。
越後、そして駿河から多くの軍勢が関東に向かっていた。
目指すは鎌倉、討伐の相手は上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)。
越後国から出陣した上杉房方(うえすぎふさかた)と関東管領、上杉憲基(うえすぎのりもと)は士気の上がる軍勢を見て、
房方「まもなく関東に入るぞ。憲基殿、敵はまもなくだな。」
憲基「伯父上、禅秀を討って鎌倉を取り戻さねば関東管領として面目が立ちませぬ…者ども!!行くぞー!!」
憲基さんは禅秀さんらの軍勢に襲われて越後に逃げたから気合いが入っていたんだね
越後勢は信濃国守護、小笠原政康(おがさわらまさやす)の軍勢と合流しており八王子方面から鎌倉に進軍したのだ。
この軍勢に呼応したのが江戸氏(えどし)、豊島氏(としまし)の武蔵勢が禅秀勢を武蔵から排除した。
ところが応永24年(1417年)元旦、世谷原(せやはら)で禅秀勢が武蔵勢を破り押し返した。
世谷原って今の神奈川県横浜市瀬谷区の辺りなんだよ
調子に乗ってきた禅秀であったが…
禅秀「今川が箱根峠を超えただと!?」
駿河から進軍していた今川(いまがわ)勢が禅秀の隙間を突いて相模に入ったのである。
禅秀は急いで鎌倉に帰ったが、禅秀に援軍はなく…
1月10日、禅秀は一族郎党と共に鎌倉の雪の下で自害したのである…。
つづく…
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