私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。
保元の乱で為朝は流罪になりましたが、その後、京はどうなったのでしょう?
保元の乱で勝者となった後白河天皇(ごしらかわてんのう)派は政を行います。
後に譲位、出家し後白河法皇となります
その政の中心にいたのが後白河天皇の側近の信西(しんぜい)でした。
信西は国政改革を行ないましたが、改革を推進するために頼りにしたのが北面武士の中でも最大の兵力を持っていた平清盛(たいらのきよもり)の平氏一門でした。
平清盛
平氏一門は保元の乱後、4ヶ国の受領を占めて勢力を誇っていたんだよね
ところが、もう1つの政治勢力がありました。後白河天皇の第一皇子の守仁親王(もりひとしんのう)を擁立する勢力です。
その中心が鳥羽法皇(とばほうおう)の皇后であり、近衛天皇(このえてんのう)の生母の美福門院(びふくもんいん)でした。
美福門院
守仁親王は美福門院の養子となっており、後白河天皇即位は守仁親王が即位するまでの中継ぎだったのです。
信西も元は鳥羽法皇の側近だったこともあり、美福門院からの要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日、信西と美福門院の協議により、後白河天皇は守仁親王に譲位したのです。
これが二条天皇(にじょうてんのう)です。
二条天皇
ここに後白河院政派と二条親政派の2つの勢力の対立が始まることになりました。
二条親政派には美福門院の支援と藤原経宗(ふじわらのつねむね)、藤原惟方(ふじわらのこれかた)が中心となり、後白河院政派を抑圧しました。
後白河上皇が頼れるのは信西でしたが、元鳥羽法皇の側近であり、美福門院との関係から信西も微妙な位置でした。
信西さんも美福門院さんには弱かったのかな
ここで後白河上皇が抜擢したのが藤原信頼(ふじわらののぶより)だったのです…
つづく









