今回は『猛将親父』のこぼれ話です。
その②です。
『猛将親父』の目次はこちら⬇️
吉川元長
元長は天正14年(1586年)11月15日に亡くなった元春の後を追うように翌年の6月に亡くなった。
元長が吉川家の後継ぎを弟であり、元春の三男の広家(ひろいえ)に推薦し、毛利輝元(もうりてるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)も同意した。
吉川広家
広家さんが吉川家の当主になった時は経言(つねのぶ)って名前だったけど、ここでは広家の名前で通しますね
元春には次男がいたのに、なぜ三男の広家が後を継いだのか?
次男は元棟(もとむね)。後に元氏(もとうじ)と名乗ります。
ここでは元氏で通します
元氏は周防国の仁保隆在(にほたかあり)が男子がいないまま亡くなっていたため、元亀2年(1571年)に隆在の娘と結婚し、仁保家の家督を継いだ。
永禄12年(1569年)、尼子勝久(あまこかつひさ)や山中鹿介(やまなかしかのすけ)の尼子再興軍が出雲に進出してきた時、元春や元長と共に出陣しています。
さらに元亀元年(1570年)、尼子再興軍と大内輝弘(おおうちてるひろ)に同意して毛利の後方を撹乱していた三隅国定(みすみくにさだ)を討ち取っています。
元氏さん、武功もあるんだね
その後、上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)や鳥取城の戦い(とっとりじょうのたたかい)などにも参陣しています。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州攻めにも元春、元長、広家と共に出陣していますが、病がちであり、元長としては自らが病で倒れた事も思い、広家を後継ぎに選んだのでしょう。
元氏さんはどんな思いだったのだろ?
その後、元氏は輝元の意向で仁保家の名跡は他のものに譲り、繁沢元氏(ばんざわもとうじ)と名乗ります。
病がちな元氏は文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)には出陣せず、家臣を広家に預けています。
広家が吉川家の当主となった後、元氏とは不仲になっていました。
不仲を心配した小早川隆景は広家に融和するように書状を送っています。
関ヶ原の戦いの後、毛利家が周防、長門の2ヶ国に厳封されると、元氏も周防国に移り、玖珂郡に3166石を与えられました。
慶長18年(1613年)、元氏の嫡男、元景(もとかげ)が毛利姓に復することを許されました。
元氏さん、元景さんの子孫は長州藩の家老の阿川毛利家(あがわもうりけ)として続いたんだよ
しかし、元氏は毛利の苗字ではなく、繁沢の苗字で通しました。
病がちだったのに元長、広家より長生きし、寛永18年(1631年)に亡くなりました。享年76。
元氏のお墓
元氏は吉川家の当主ではありませんでしたが、毛利本家を支え、子孫も家老として仕え、元就(もとなり)の遺訓を守ったのです。
元春の4男は松寿丸(しょうじゅまる)さんなんだけど、天正6年(1578年)に病で早世したんだ
おわり
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