猛将親父・外伝〜もう1人の毛利両川② | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

コアラ『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️


吉川広家(きっかわひろいえ)です。



文禄2年(1593年)、毛利(もうり)家当主・毛利輝元(もうりてるもと)は、まだ実子に恵まれていなかった。

そんな時、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、なんと57歳で子が誕生したのだ。

幼名・(ひろい)、後の豊臣秀頼(とよとみひでより)である。

豊臣秀頼




そんな時に小早川隆景(こばやかわたかかげ)は黒田官兵衛(くろだかんべえ)から、


官兵衛「隆景殿、輝元殿は未だに実子におらず。後継ぎにもお困りであろう…」


隆景「…はぁ」


官兵衛「秀吉様の養子である羽柴秀俊(はしばひでとし)様を輝元殿の養子に貰い受けてはどうか?」


コアラ秀俊さんは、秀吉さんの正室・おねさんの甥にあたり、秀吉さんの養子になっていたんだ



隆景「秀吉様の御養子を?」


官兵衛「中国地方の大大名の毛利に後継ぎがいないことを秀吉様もご心配されておる。」



隆景はとっさに、


隆景「ありがたいお話ではごさいますが…輝元様には後継ぎとなる養子候補はおりまする。」


官兵衛「ほぉ、それは初耳でした。」


隆景「はい、輝元様の従兄弟にはなりますが、毛利秀元(もうりひでもと)にございます。」



毛利秀元


コアラ秀元さんは隆景さんの異母弟で毛利元就(もうりもとなり)さんの四男になる穂井田元清(ほいだもときよ)さんの子なんだよ



官兵衛「そうですか…それは困った。秀吉様は乗り気でしたが…」



隆景は秀吉からの養子話を断ったことで毛利本家を秀吉が疎んじるようになることを恐れ、



隆景「官兵衛殿、実はわしにも実子がおりませぬ。秀吉様のお許しを頂ければ、小早川家に秀俊様を養子としてお迎えしたいのですが、いかがですか?」


官兵衛「なんと⁉︎ 小早川家に?それは秀吉様もお喜びになるであろう。」




翌年の文禄3年(1594年)、隆景と秀俊の養子縁組が決まった。



隆景としては、


隆景『毛利の血筋でもない秀俊様を毛利本家に迎えれば秀吉様のいいなりになってしまう。それでは父、元就以来の領地も守れなくなる。わしが身を挺して守らねば…』




隆景は豊臣政権の五大老に選ばれていた。

(他は徳川家康(とくがわいえやす)、前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元、宇喜多秀家(うきたひでいえ)である)




文禄4年(1595年)、隆景は秀俊に家督を譲って隠居し、譜代の家臣団だけをつれて三原城(みはらじょう)に帰ったのである。


三原城跡



隆景は小早川家のことより、毛利本家のことをより心配していたのである。




小早川家の当主となった秀俊が後の小早川秀秋(こばやかわひであき)である。



小早川秀秋



コアラ秀秋さんが関ヶ原の戦いで西軍を裏切るんだよね



慶長2年(1597年)6月12日、隆景は逝去した。享年65。



吉川元春(きっかわもとはる)と共に毛利両川(もうりりょせん)として毛利を守り支えた隆景。



数年後に起こる関ヶ原の戦い…隆景が生きていれば毛利はどうなっていたであろう?





終わり



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