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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
戦は終わり、元春は経言(つねのぶ、後の広家)と共に炎上した高尾城(たかおじょう)跡から戦場を眺めていた。
小早川(こばやかわ)軍は金子元宅(かねこもといえ)ら伊予の軍勢に勝ったんだよね
経言「父上、隆景(たかかげ)叔父上らの軍勢は河野氏(こうのし)をも降伏させましたが、我らは行かなくてよいのですか?」
元春「わしは河野討伐には要はない。」
経言「元宅(もといえ)殿との一騎討ちのみ…でしたね。」
元春「この戦、元宅は義を押し通したのだ。長宗我部(ちょうそがべ)と結んだばかりなのに毛利(もうり)に乗り換える…そんなことが許せなかったのだ。武士として…」
経言は本当は元春自身も秀吉(ひでよし)と戦いたかったのだろうと思った。
しかし、元就(もとなり)公の遺言が元春にそれをさせなかったのだ。
毛利元就
元春と経言は忍びの弥助(やすけ)の用意した水軍の船で安芸国に戻った。
天正13年(1585年)8月上旬、秀吉は四国の国分(くにわけ)を沙汰した。
長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)は土佐一国。
長宗我部元親
伊予国は小早川隆景と来島通総(くるしまみちふさ)、そして安国寺恵瓊(あんこくじえけい)も領主となったのだ。
安国寺恵瓊
恵瓊は毛利の外僧として秀吉と接するうちに、秀吉に気に入られたのだ。
阿波国は蜂須賀(はちすか)、讃岐国は仙石(せんごく)らが封じられたんだよ
さらに秀吉は北陸へ遠征し、越中国の佐々成政(さっさなりまさ)を降伏させ、さらに強大になっていった。
そして藤原姓に改めて関白(かんばく)となったのだ…
つづく…
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