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輝弘は永禄12年(1569年)10月に周防に上陸、これを知った大内氏の遺臣が続々と輝弘の軍に加わり、進軍。山口に侵入した時には6,000の軍勢に膨らんでいた。
大内輝弘さんは大友宗麟(おおともそうりん)さんの元にいて、大内氏再興を狙って挙兵したんだよ
輝弘軍は毛利(もうり)方の山口町奉行の井上就貞(いのうえなりさだ)の軍勢と激戦、数に上回る輝弘軍が打ち破った。
続いて輝弘軍は毛利方の籠る高嶺城を攻めたのである。
ここで冒頭の声になるんだね
高嶺城の城主、市川経好(いちかわつねよし)は北九州の毛利軍におり不在でわずかな兵しかいなかった。
しかし、経好の妻、市川局(いちかわのつぼね)は自ら鎧を纏い、兵を鼓舞したのだ。
局「殿が不在の中、残っている我らが城を守らねばなりませぬ!!九州から来たものなど大内ではありませぬ!!城を落されてなるものか!!」
市川局の指揮により、高嶺城の兵は交戦。輝弘軍はなかなか高嶺城を落とすことが出来ず、膠着状態となった。
一方、北九州にいた毛利軍は10月15日から撤退し18日には長府に到着した。
長府は今の山口県下関市の地域だね
ここで毛利元就(もうりもとなり)は元春と福原貞俊(ふくはらさだとし)に10,000の兵を与え山口に急行させたのだ。
元春「急げ!!輝弘軍を蹴散らして、そのまま出雲まで行くぞ!!!」
元春の軍勢は輝弘に組したものらを討伐し進軍していった。
さらには石見の吉見正頼(よしみまさより)からの援軍も進軍してきたのだ。
吉見正頼
高嶺城が落ちない中、毛利軍が近づいていることを知った輝弘軍に参加した大内氏の遺臣は次第に輝弘軍から離散し始めていた。
輝弘「なっ、なんだ⁉︎兵が減っている…なぜた⁉︎我は大内の血を引く大内輝弘ぞ!!」
輝弘の手勢は800となり、山口から撤退し上陸した秋穂浦に来たが…
輝弘「…船がいない。大友の水軍はどこへ行ったのだ…?」
すでに大友の水軍は引き上げていたのだ。船のない輝弘軍は東に逃げた。
輝弘軍の兵はさらに100まで減っていた。
東からは別の毛利方の軍勢が迫り、さらには後方からは元春の軍勢が迫っており、輝弘らは果敢に戦いを挑んだが壊滅。
輝弘「……もはやこれまでか…」
輝弘は自刃した。
元春は輝弘の首を長府の元就の陣に送った。
元春「…輝弘、哀れなり。宗麟に利用されたに過ぎなかった…」
輝弘は宗麟が毛利軍を九州から撤退するために乱を起こさせたに過ぎなかったのだ。
それが証拠に宗麟は撤退する毛利軍を追撃することはなかった。
元春「さぁ!出雲に向かうぞ!!」
つづく…
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