1973年4月20日の群馬県吉井町体育館の興行を最後に日本プロレスは興行を停止しました。
事実上の崩壊だね
日本プロレス社長の芳の里は崩壊を見考して残っている選手を力道山家を通して全日本プロレスで預かってもらおうと動いていたのだ。
そして力道山家や日本テレビ等々の仲介で全日本プロレスへの合流が決まった。
日本プロレス残党の受け入れはジャイアント馬場さんとしては迷惑な話しかなかった。
しかし、日本テレビや力道山家のバックアップを受けている立場として渋々受け入れた。
馬場さん、全然笑ってないね
馬場さんは受け入れしたが、現場の決定権を持つことを条件にしたのである。
合流した日本プロレス残党でしたがマッチメークで扱いに差が出ました。
大木金太郎は気を使ってか、セミや馬場さんとのタッグパートナーでしたが、上田馬之助と松岡厳鉄は前座で、しかも試合に出れない日もあり冷遇されていました。
上田は日本プロレス末期にはインタータッグ王者であり、松岡はアジアタッグ王者でダニーホッジのNWA世界ジュニア王座に挑戦した実績がありましたか…
猪木さんのクーデター事件以来、馬場さんは上田に不信感を抱いていたのです。松岡は先輩レスラーにはゴマを擦りや讒言をし、後輩レスラーをイジメたりマスコミに対して横柄な態度をするなど最悪な評判でした。
馬場さんは上田、松岡を追い出しにかかっていたのでしょう。
上田、松岡は大木に「何とかしてほしい」を訴えましたが、自らの扱いに満足している大木は訴えを聞こうとはしませんでした。
10月9日の全日本プロレス創立1周年記念興行の蔵前国技館大会で馬場さんはメインでザ・ファンクスのインタータッグに挑戦しましたが、そのパートナーに凱旋帰国した鶴田友美(後にジャンボ鶴田)を選んだのです。
これには大木が「パートナーには日本プロレス代表の自分だ」と馬場さんに抗議しましたが今後、鶴田を売り出すことと鶴田の力量を買って大木の抗議を一蹴したのです。
結果的にジャンボが馬場さんの期待以上の大活躍をしたんだよね
この蔵前国技館大会を最後に上田、松岡は離脱しました。
そして大木は中堅に降格、対戦相手も格下外人レスラーとなり、12月14日の日大講堂の大会を最後に韓国へ帰国し、離脱したのです。
馬場さんの思惑通りに大木、上田、松岡の3人は全日本プロレスから去りました。
馬場さんとしては全日本プロレス旗揚げから苦楽を共にしている選手と日本プロレス残党を対等に扱うことはできなかったのでょう。
つづく
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