1972年10月16日、赤坂ヒルトンホテルでジャイアント馬場さんが全日本プロレス旗揚げ記者会見。
その席にいたのが、
馬場さんに全日本プロレスに参戦する日本人レスラーメンバーにジョー樋口さん…左の女の人は…
亡き力道山の未亡人、百田敬子さんがいました。
全日本プロレスに力道山家(百田家)が全面協力することになり、レスラーである次男、百田光雄の参戦、そして長男の百田義浩がリングアナウンサーとして契約したのです。
旗揚げ時の日本人レスラーにレフェリーにリングアナウンサーだね
力道山家の協力を得たのは、全日本プロレスが力道山から継続する正統なイメージがつきました。
10月20日の旗揚げ記念パーティーが行われました。
その席で敬子未亡人から亡き力道山が巻いたインターナショナルヘビー級のベルトが馬場さんに提供されたのです。
このベルト、力道山がWWA世界チャンピオンの時に使われ、その後インターヘビーのベルトにも使われたんだよね
敬子未亡人は力道山亡き後の日本プロレスから追い出された経緯から、日本プロレスを見捨て日本テレビの元、馬場さんに協力するのは当然の流れでしたね。
こうして馬場さんの全日本プロレスは10月21日、東京は町田市体育館で旗揚げしました。
一方、日本プロレスは12月に馬場さんが返上し空位になっていたインターヘビー級王座の決定戦をボボ・ブラジルと大木金太郎の2連戦で行いました。
第一戦ではボボ・ブラジルが勝ち8代目王者となり、第二戦では大木がリベンジを果たし9代目王者となりました。
しかし、観客動員数は思ったより伸びませんでした。
日本プロレスは坂口征二、大木金太郎の2枚看板で立て直しを計りました。
今見ると、坂口、大木、吉村道明、高千穂(後のカブキ)上田馬之助…外人レスラーのルートもあり、他団体に対抗できると思いますが…
ここでまたまたテレビ局、NET(現・テレビ朝日)からの圧力がかかったのです。
つづく
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