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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
天文9年(1540年)9月5日、尼子軍は郡山南西の村を焼き払った。
吉田郡山城内から、これを見た次郎(じろう、後の元春)は、元就(もとなり)の元へ走った。
次郎「父上!父上!尼子が村々に火を放ちましたぞ!民の村が焼けております!」
元就「次郎、騒々しい!」
次郎「されど、村には作物が…」
元就「心配いたすな。すでに稲刈りをして作物は城内に運んでおる。村には食べるものはない。」
次郎「父上は、それを計算済みで…」
元就「うむ、尼子は城下の兵糧を当てにするであろうからな。」
翌6日、尼子軍4500騎は城の南下の町屋敷を放火し、城に攻撃をかけてきた。
しかし、毛利軍は激しく抵抗し、尼子軍数十名を討ち取ったのだ。
さらに12日には尼子軍は軍勢を分けて城下を攻めてきた。
元就「通、策通りに…」
通「はい!」
元就は家臣の渡辺通(わたなべかよう)らを出陣させた。
毛利軍は30人ほどの兵が多治比川(たじひかわ)を渡り突進した。
しかし、突進した兵はすぐさま退去を始めたのだ。
これを見た尼子軍は、
「逃げるのか!?討て討て!」
追撃を始めたのだ。
すると…
通「今だ!放て!」
茂みから通らの伏兵が一斉に矢を放ち、尼子軍はまたしても数十名が討たれたのだ。
尼子軍は元就の罠にまんまとかかったのだ。
この状況を城内で知った次郎は、興奮していた。
次郎「父上は凄い!数で上回る尼子を手玉にとっておる。」
元就は策を用い、尼子軍と小競り合いで打ち勝っていたのだ。
尼子軍の大将、尼子詮久(あまこあきひさ)は苛立っていた。
詮久「くそっ!少数の毛利に何を手間取っておるのだ!?」
そこに尼子最強の新宮党(しんぐうとう)の国久(くにひさ)が、
国久「殿、我ら新宮党にお任せくだされ!元就の首、取って参ります。」
尼子は新宮党ら1万を導入してきたのだ…。
つづく…
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