今回は歴史連載物語『天狗将軍』のこぼれ話です。
その④
『天狗将軍』の目次はこちら⬇️
応仁の乱(おうにんのらん)、明応の政変(めいおうのせいへん)、両細川の乱後、衰退、没落、滅亡する守護大名がいる中、細川氏はどうなったのでしょう?
細川氏は常に争乱の中心にいたよね
洛中洛外図にある細川殿
細川高国(ほそかわたかくに)を倒したのは細川澄元(ほそかわすみもと)の子、晴元(はるもと)と三好之長(みよしゆきなが)の孫、元長(もとなが)でした。
晴元は室町幕府12代将軍、足利義晴(あしかがよしはる)の兄弟、足利義維(あしかがよしつな)を擁していましたが、権力を手に入れると義維を捨て義晴と和睦したのです。
これで三好元長と対立、さらには討ってしまったのです。
元長さんは晴元さんを細川京兆家の当主につけた最大の功労者だったのに…
この後、晴元は高国派勢力や宗教勢力と争いを繰り広げました。
ところが晴元の家臣で晴元に討たれた三好元長の子、三好長慶(みよしながよし)が高国派の細川氏綱(ほそかわうじつな)を擁して晴元を裏切ったのです。
長慶に追われた晴元は近江に逃げ、ここに細川政権は崩壊したのです。
将軍、義晴さんも一緒に逃げたんだよね
長慶に担がれた氏綱は京兆家の当主にはなりましたが、結局は傀儡に過ぎず、長慶が実権を握ったのです。
晴元は義晴の後を継いで第13代将軍となった足利義輝(あしかがよしてる)を擁して長慶に戦を仕掛けましたが、かなわず、永禄4年(1561年)に長慶と和睦したのです。
晴元はその2年後に亡くなりました。
晴元さんって謀略、裏切り、戦の一生だったね
細川京兆家は衰退しましたが、傍流の細川和泉守護家の細川藤孝(ほそかわふじたか)が織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、藤孝の子、忠興(ただおき)が徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、細川氏は熊本藩54万石の領主となり明治時代に至り、現代まで続いている名門の家となりました。
※⬆️第79代内閣総理大臣になった細川護煕(ほそかわもりひろ)さんは細川氏の子孫です。
おわり
にほんブログ村
宜しければバナー⬆️をクリックしてね