私、細川政元(ほそかわまさもと)様の忍びであり乳母でもあった紗奈(さな)です。
私は政元様の命で政元様亡き後の世がどうなったかを見てきました。
それをここで語りたいと思います。その②です。
永正4年(1507年)8月、京で細川澄元(ほそかわすみもと)が細川京兆家の家督を継いだ頃、西国であの人物が動きだしました。
それは…
前将軍・足利義尹(あしかがよしただ)様でした。
義尹さんは明応の政変で政元さんに将軍職を剥奪されたんだよね
義尹様は周防長門の大内義興(おおうちよしおき)の元に亡命して、上洛の機会を伺っていたのです。
政元様が暗殺され、京の情勢が混乱しているのを見た義興はこの機会を逃さず、上洛を開始したのです。
一方、京では澄元政権が始まりましたが、澄元が政に重用した三好之長(みよしゆきなが)、高畠長信(たかばたけながのぶ)らが無礼な振舞いばかりしていたのです。
これに対し細川高国(ほそかわたかくに)を始めとする細川一門が不満を持ち反発したのです。
細川一門は同じ細川阿波守護家が京兆家に入り込むことを嫌ったんだね
高国は澄元から大内義興との和平交渉の命が出ましたが、これに背き、義興と通じ伊勢国に逃亡したのです。
永正5年(1508年)4月、高国は畿内の国人衆を味方につけ、さらには紀伊の畠山尚順(はたけやまひさのぶ)、丹羽の内藤貞正(ないとうさだまさ)らも呼応し京に侵攻を始めました。
高国さんは大内義興さんと通じてるから、ここに足利義尹、大内義興、細川高国派と足利義澄、細川澄元、三好之長派の対決図式になったね
これを見た之長は澄元を連れ甲賀へ逃亡、さらには室町幕府、第11代征夷大将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)様も近江国に逃亡したのです。
4月末には和泉国の堺に義尹様と義興の軍勢が到着、それを迎えた高国は細川京兆家の当主となったのです。
政元さんが亡くなって1年で、澄之、澄元、高国と3人も京兆家の当主が変わったんだね
そして6月、堺から京に入った義尹様は念願が叶い、再び将軍になったのです。
しかし、これで争乱が治まりませんでした…
つづく…
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