世は争乱…
我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。
明応の政変後、細川政元(ほそかわまさもと)の領地・小豆島に流れる前に越中国に逃亡した前将軍・足利義材(あしかがよしき)はどうなかったか?
越中国は明応の政変で自害した畠山政長(はたけやままさなが)が守護を務める国であり、政長の家臣・神保長誠(じんぼながのぶ)が守護代を務めていた。
長誠は明応の政変の時は中風を患い、越中に帰国していた為、難を逃れていたのだ。
義材は長誠の居城、放生津城(ほうじょうづじょう)に迎えられていた。
長誠「御所様(義材のこと)、越前の上杉房能(うえすぎふさよし)が参礼の使者を送ってきました。」
義材「東国の権力者、上杉も我に忠誠を誓ったか…」
長誠「これで能登国の畠山義統(はたけやまよしむね)、加賀国の富樫泰高(とがしやすたか)、越前国の朝倉貞景(あさくらさだかげ)、そして上杉…北陸の大名が従いましたな。」
義材「我の京奪還の激が効いたな。よし、これで京を攻められる。」
長誠は正光寺を改装して義材の御所とした。そして義材は越中公方(えっちゅうくぼう)と呼ばれた。
この状況に政元は軍勢を北陸に派遣したが、義材の軍勢に撃退されたのだ。
京の民衆は義材が攻めてくると噂し、公家の中には義材に誼みを結ぼうと密書を送るものもいた。
しかし、政元には焦った様子はなかった。
家臣の安富元家(やすとみもといえ)は政元の様子に焦っていた。
元家「殿、北陸の軍は強大ですぞ!」
政元「強大?冗談を申すな。」
元家「冗談を申してはおりませぬ!朝倉、富樫、能登畠山、越後上杉が義材の味方をしております。」
政元「足利の、しかも前将軍が下向してきたら、挨拶くらいはするであろう。皆、本気で忠誠など誓ってはいない。」
元家「殿は既に調べておりますな?」
政元「わしはかつて越後の上杉殿とは周知の関係だ。上杉殿から報せが入っておる。義材は何も知らぬのだ。」
元家「では、攻めてはこぬと?」
政元「今はな…今は様子を見よう。準備だけはしておけ。」
義材は明応3年(1494年)に挙兵宣言をしたが、明応4年(1495年)になっても明応5年(1496年)になっても挙兵はしなかったのだ。
義材「なぜ、皆は兵を率いてこないのだ⁈…」
政元の言うとおり、北陸の大名は本気で戦をするつもりはなかったのである。
さらに義材陣営内部でも和平派と主戦派と分かれており、まとまってはいなかった。
義材「このままでは何も進まぬ…。」
義材は次の手を打つのであった。
一方、京の政元は修験道をますます励むようになっていた…。
つづく…
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