世は争乱…
我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。
ザクッ!!
明応2年(1493年)10月、細川政元(ほそかわまさもと)の家臣同士の喧嘩があり、抜刀し双方斬られた。
片方は長潮弥六(ながしおやろく)で、その場で即死、もう一方は丹波国の守護代、上原元秀(うえはらもとひで)は深傷を負った。
上原元秀さんは明応の政変で活躍したんだよね
そして11月18日、元秀は傷が癒えず亡くなってしまった。
政元は明応の政変でも活躍し片腕として期待していた元秀を失ったのは、痛かったのだ。
丹波国の守護代は元秀の父であり、政元の側近でもあった上原賢家(うえはらかたいえ)が再任した。
賢家「殿…元秀の奢りが他の家臣の怒りを買い、このようなことになって申し訳ございません。」
政元「もうよい…終わったことだ。ただ、これから政の実権を握るに、痛手にはなった…。」
賢家「…どのようになさるおつもりですか?」
政元「うむ…わがままを言ってみるか…」
賢家「わがまま??」
賢家は政元が何をしようとしているのか、わからなかったが、政元には策があったようだ。
翌年、明応3年(1494年)12月…
前年に足利義遐(あしかがよしとお)は名を足利義高(あしかがよしたか)に改め、将軍宣下の前の元服の儀を迎えることになった。
この元服の儀の諸役のほとんどが細川一門が占めていた。
諸役には加冠、理髪、打乱、泔坏ってあるんだよ
政元は加冠の役で義高の烏帽子親でもあったが…
政元「わしは烏帽子を被りたくない!」
政元が烏帽子を被ることを嫌い出したのだ。
その為、儀式が延期されてしまったのだ。
当時、烏帽子を被るのは武士の正装、被らなければ失礼になるんだよ
慌てたのは幕府政所執事の伊勢貞陸(いせさだみち)の父、貞宗(さだむね)だった。
貞宗「政元殿、いかがされたのだ?こんな間際になって…」
政元「烏帽子など被らず、このままでよいであろう?」
貞宗「なりませぬ、烏帽子を被らないとは非礼であろう!」
政元「なら、わしは辞退させてもらう。」
政元が辞退すれば他の細川一門が全て辞めてしまう…貞宗は困ってしまった。
翌日、政元の元に我が母・日野富子(ひのとみこ)がやって来た。
政元「烏帽子を被りたくないのです。」
富子「……そなた、私にはその言い訳は通用しませんよ。幕府の実権を握りたい…それでわがままを言っているのでしょ?」
政元「……さすが大御台様(富子のこと)。」
富子「細川がいなければ儀式すらできないと周りに知らしめたいのでしょ…私は山名宗全(やまなそうぜん)殿、そなたの父、勝元(かつもと)殿…個性の強い武将を相対してきました。そのくらいわかります。」
政元「見抜かれましたか…」
富子「政は政元殿に任せるために先の政変に私は加担したのです。もう将軍家には力はありません。荒れた世を担うことができるのは、そなただけです。」
政元「大御台様にそこまで言われたら、何も言うことはありませぬ。烏帽子を被り、儀式に出ます。」
富子「私もこの先、長くないでしょう。頼みますよ…。」
12月27日、元服の儀式は無事行われてた。
この騒ぎは政元が騒げば将軍をも従わなければならないことを周りに知らしめる結果となったのだ。
その頃、関東でも足利家の力が落ちる出来事が起きていたのだ…。
つづく…
次回をお楽しみに〜
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