世は争乱…
我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。
細川政元(ほそかわまさもと)は自邸の御堂で念を唱えていた。
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明応2年(1493年)の明応の政変により、自ら擁立した足利義遐(あしかがよしとお)を将軍にした。
それまであった奉公衆などの将軍の軍事的基盤を崩壊させ、将軍権力は政元の細川氏が支えることになった。
ただ、政元が政(まつりごと)を全て握ったわけではなかった。
義遐の後見役を伊勢貞宗(いせさだむね)が務めたのだ。
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貞宗には我が母、日野富子(ひのとみこ)の意向があり、政元はそれを無視はできなかったのだ。
富子、貞宗の協力があったからこそ明応の政変が成功したのだ。
政元はそれを踏まえて幕府と協調していったのだ。
明応2年末に政元が気にかけていた山城国一揆(やましろくにいっき)が崩壊した。
山城国の守護は名義上、貞宗の子・伊勢貞陸(いせさだみち)になっていた。
貞陸は明応の政変の中で前将軍、足利義材(あしかがよしき)の勢力を山城国から一掃する名目で攻め出した。
山城国の自治は貞陸の守護支配に入ることを望む国人と、それに反対する国人、民とに分かれてしまい崩壊したのだ。
貞陸は反対する勢力が一揆を起こしたので、それを攻めたのだ。
政元は明応の政変のこともあり、義材勢力一掃を理由にする貞陸に反抗することはできなかったのだ。
反対する国人衆の勢力は稲屋妻城(いなやづまじょう)に立て篭り反抗したが、貞陸の軍勢に攻められ敗れた。
8年間続いた山城国の自治は崩壊した。
政元は、
『民の国を潰しおって…いずれ、全てはわしが牛耳る…』
念を唱える政元の声に力が入っていった。
翌年、明応3年(1494年)に義遐は正式に将軍に就任した…。
つづく…
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