世は争乱…
我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。
延徳3年(1491年)4月、第10代征夷大将軍・足利義材(あしかがよしき)は近江、六角高頼(ろっかくたかより)征伐を宣言した。
細川政元(ほそかわまさもと)は反対だったが、渋々了承したのだ。
六角征伐に参加した守護大名は、
畠山尚長(はたけやまひさなが、政長の子)、斯波義寛(しばよしひろ、尾張・遠江の守護)、武田元信(たけだもとのぶ、若狭の守護)、赤松政則(あかまつまさのり)、一色義直(いっしきよしなお)、京極政経(きょうごくまさつね)、土岐成頼(ときしげより)、大内政弘(おおうちまさひろ)。
山名政豊(やまなまさとよ)は自らは参陣せず嫡男、俊豊(としとよ)が代わりに参陣した。
そして、阿波国の細川之勝(ほそかわゆきかつ)も参陣したのだ。
之勝は上洛し政元に挨拶のため政元の館に来た。
之勝「此度は御所様(義材のこと)の御達しにより軍勢率いて馳せ参じました。」
政元「これは御所様もお喜びであろう。」
之勝「はい、先ほど御所様には拝謁してきました。御所様はたいそうお喜びで、御名の一字をわしに与えて頂きました。」
政元「一字?なんと…」
之勝「義の一字を与えられ、これより義春(よしはる)と名乗りまする。」
将軍から一字をもらうのは下の字であり、政元の細川京兆家ですら『義』の一字を名乗ることはなかった。
同じ細川家の阿波細川家が『義』を頂いたのは異例のことであった。
政元「それは名誉なことだ。」
義春「さらに御所様は今お住いの三条御所から、わしの住まいの一条油小路の館に移るそうだ。」
政元はこれを義材のあてつけにしか思えなかった。
政元『わしを廃して細川家を阿波細川家の義春に渡すつもりか!?』
義春が帰った後、政元の元に赤松政則が挨拶に訪ねてきた。
政元「これは赤松殿、挨拶とはご丁寧に有り難く存ずる。」
政則「我が赤松家は政元殿のお父上、勝元(かつもと)公の後ろ盾で再興がかなった。挨拶は当然のこと。」
政元「此度は当主自ら参陣、領国は大事ござらぬか?」
政則「山名との争いに一区切りはついたが…またいつ山名が攻めてくるやもしれぬ。領国に居たいのだが…」
政元は参陣している大名全てが将軍を慕っている訳ではないことを悟った。
延徳3年8月、義材は大軍勢を率いて出陣した。
しかし、その中に政元の姿はなかった。
政元は家臣の安富元長(やすとみもとなが)に兵をもたせて出陣させたのだ…。
つづく…
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