「白の執権」の本編は最終話を終えました。
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1242年7月14日、北条泰時(ほうじょうやすとき)が亡くなり、その後の北条氏はどうなったか?
泰時の後、執権職に就いたのが孫の経時(つねとき)でした。
この時、経時は19歳の若さでした。
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しかし、経時就任をよく思わない勢力がいたのです。
北条氏が権力を握ることに不満を持つ御家人たち…そして同じ北条氏でも傍流の北条氏たちも不満を持っていました。
その傍流の北条氏の筆頭が泰時の異母弟・朝時(ともとき)の一族でした。
朝時の一族は鎌倉は名越(なごえ)の地に居を構え、名越流北条氏…名越と呼ばれていました。
泰時が亡くなった時も名越の一族は不穏な動きがあったようなのですが…どんな動きだったのか?はっきりしないのです。
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執権となった経時を支えるのは、この時、京の六波羅探題にいる北条重時(ほうじょうしげとき)や側近の北条実時(ほうじょうさねとき)でした。
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執権となった経時は訴訟制度の改革を行なうなど精力的でした。
経時に不満を持つ名越一族の筆頭が朝時の嫡男・光時(みつとき)でした。
光時「我らも同じ北条、若輩の経時などに権力を握らせるわけにはいかぬ!」
光時は同じ不満を持つ御家人たちと結ぶことを考えたのです。
そのためにある人物に着目しました。
それは幼くして鎌倉に来た将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)だったのです…。
つづく
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