諸行無常の世の中…
我は北条泰時(ほうじょうやすとき)が妹、竹子(たけこ)です。
1183年、泰時が北条義時(ほうじょうよしとき)の長男としてこの世に誕生しました。
母は我が叔母で源頼朝(みなもとのよりとも)様の正室・政子(まさこ)様に仕える侍女をしていた光(ひかり)です。
父・義時は光をこよなく愛していましたが光は正室にはなることはありませんでした。
義時「光、すまぬ。男子を生んでくれたのに…。」
光「殿、よいのです。私は身分卑しきもの。殿に慕われ子をもうけたことがこの上ない幸せなのですから。」
頼朝様の親戚である北条氏で政子様の弟である義時はしかるべき家から正室を迎えねばならなかったのです。
しかし、義時は正室を迎えようとはしませんでした。
正室を迎える場合ではなかった時期でもあったのです。
この頃、頼朝様は朝廷より寿永の宣旨(じゅえいのせんじ)を受けました。これは東国における年貢や官物の納入の役目を与えられることでしたが、頼朝様は朝廷に東国支配を認められたのです。
そして頼朝様は自らの弟、源範頼(みなもとののりより)と源義経(みなもとのよしつね)に義仲追討の軍勢を与えたのです。
義時は義仲追討軍に加わることになりました。
しかし義時は鎌倉に残していく光と金剛のことが心配でした。
義時「光、わしは明日出立する。お前と金剛のことは姉上に頼んである。」
光「私たちのことは心配なされますな。殿、ご武運を…。」
義仲追討軍は鎌倉を出立し、翌1184年には京で義仲軍と激突。義仲軍は敗走し義仲は粟津の戦い(あわづのたたかい)で討たれたのです。
その報せは鎌倉に伝わり、義時の無事を聞いた光はひと安心しました。
鎌倉では頼朝様が残り、東国経営に専念していました。
戦に出た義時が心配だったのは、この頼朝様だったのです…。
つづく…
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