世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
1568年4月、駿河国・今川氏(いまがわし)より寿桂尼(じゅけいに)殿が亡くなったと報せが入りました。
その後、小田原城(おだわらじょう)に甲斐国・武田氏(たけだし)より使者が訪れたのです。
その使者は真田幸隆(さなだゆきたか)と申しました。
氏康「武田殿からの使者とはいかなる用か?」
幸隆「我が武田は駿河を攻めまする。」
氏康「それは三国同盟を破ることになるが…?」
幸隆「力無き氏真様に駿河を任せておくわけには参りませぬ。そこで北条様と駿河を分けたいと我が御館様が申しておりまする。」
氏康「信玄(しんげん)殿なら駿河を治めると申しておるか?」
幸隆「我が御館様と北条様と力を携えてなら治められます。」
氏康「…信玄殿に伝えよ。我が北条と今川は我が祖・早雲(そううん)以来の間柄。それを無下にすることはできぬ。わしは力無き氏真を見捨てることはせぬ。」
幸隆「…はっ。」
そこへ綱成(つなしげ)が来ました。
綱成「真田殿…万一、武田様が我が北条を攻めることがあるなら、この塩商人がお相手申し上げます。」
幸隆「!!そなたは…。」
綱成が塩商人に身を変え武田の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に行った時にあった武田の家臣は真田幸隆だったのです。
幸隆「…我が御館様に伝えておこう。」
1568年12月、武田信玄の軍は駿河に侵攻していったのです。
信玄の駿河侵攻は用意周到で今川氏の家臣を調略し、さらに三河国の徳川家康(とくがわいえやす)と結び、駿河国を分割支配する密約をしていたのです。
今川氏真は戦うことなく、軍を引き、駿河の今川館から掛川城(かけがわじょう)に落ち延びたのです。
この時、今川は慌てふためき、氏真の正室で我が娘・泉(せん)は輿に乗ることもできず、徒歩で掛川城まで逃げたのです。
氏康「泉が徒歩とは…なんたる恥辱か!信玄め!」
戦わずして今川館に入った信玄にわしは怒り、翌1569年、氏政(うじまさ)を大将に兵を送りました。
信玄は常陸国の佐竹氏(さたけし)や安房国の里見氏(さとみし)らに北条を牽制するよう呼びかけましたが綱成の嫡男・康成(やすしげ)らがそれらを抑え、氏政率いる軍を撤兵させることはなかったのです。
綱成の策が功を奏したのです…。
つづく…
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