世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
1560年、ついに越後の長尾景虎(ながおかげとら)が兵を率いて関東に攻めてきたのです。
長尾軍は北条方の諸城を次々と攻め落としていきました。
厩橋城の航空写真(画像はお借りしました)
里見義堯(さとみよしたか)の久留里城(くるりじょう)を攻めていたわしは綱成(つなしげ)に里見の抑えを任し、武州松山城(ぶしゅうまつやまじょう)に入りました。
綱成は景虎が攻めてくることを予想しており、長尾軍が小田原まで来るようなことがあれば自らが景虎と対峙すると言い切りました。
景虎は関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)と関白・近衛前久(このえさきひさ)を奉じており、強力な軍事力を見せつけ関東の諸城は長尾軍に付いていったのです。
上野国
長野業正(ながのなりまさ)、 由良成繁(ゆらなりしげ)
下野国
宇都宮広綱(うつのみやひろつな)、佐野昌綱(さのまさつな)、小山秀綱(おやまひでつ な)、那須資胤(なすすけたね)
常陸国
佐竹義昭(さたけよしあき)、小田氏治(おだうじはる)
武蔵国
太田資正(おおたすけまさ)、上田朝直(うえだともなお)、成田長泰(なりたながやす)、三田綱秀(みたつなひで)
下総国
簗田晴助(やなだはるすけ)
上総国・安房国
里見義堯(さとみよしたか)
8,000で出陣した長尾軍は10万を超える軍勢になっていったのです。
わしは武州松山城では持ちこたえることは出来ずと判断し小田原城(おだわらじょう)に退きました。
わしが出した援軍要請に応じたのは下総国の千葉胤富(ちばたねとみ)、甲斐国の武田信玄(たけだしんげん)、駿河国の今川氏真(いまがわうじざね)でした。
今川は桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で義元(よしもと)が討死したばかりの混乱状態だったので援軍は無理だと思っていましたが出してくるとは意外でした。
長尾軍はさらに進軍し北条方の城を包囲したのです。
わしは各城に籠城し対抗するように命じました。それに応じ玉縄城(たまなわじょう)、河越城(かわごえじょう)、滝山城(たきやまじょう)は籠城策に出ました。
古河公方・足利義氏(あしかがよしうじ)も古河御所(こがごしょ)に籠城したのです。
1561年、長尾軍は古河御所も制圧し、ついに小田原に攻め込んできたのです。
景虎「綱成…小田原まで来たぞ。」
綱成は久留里城から一部の兵を残し、小田原城に入っていました…。
つづく…
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