世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
1541年、我が父・氏綱(うじつな)が亡くなったのと同時期に甲斐国の武田氏(たけだし)では当主・信虎(のぶとら)を子の晴信(はるのぶ)が駿河国に追放する事件が起きていました。
綱成(つなしげ)はこの報せを聞き複雑な思いでした。
綱成「信虎は我が父を討った仇。戦で信虎を討ちたかったが……。」
綱成には信虎を自らの手で討つことができなくなった悔しさがありました。
しかし、武田氏の新たな当主・晴信が綱成にとっても、わしにとってもいろんな意味で深い関係になるのです。
1542年、前年に続き不幸が起きました。
我が弟で玉縄城(たまなわじょう)の城主・為昌(ためまさ)が亡くなったのです。
綱成は河越城から離れるわけにいかず、為昌の臨終に立ち会うことはできませんでした。
河越城の綱成にわしはある命を忍びの小太郎(こたろう)を使い、報せました。
綱成「為昌様のことは知っている。これからというのに…。氏康様もお悲しみであろう。」
小太郎「はい、その氏康様からの書状です。」
綱成は小太郎から渡された書状を読みました。
綱成「わしが…為昌様の養子になり玉縄城の城主と!」
小太郎「そのようにございます。玉縄城は相模国の要の城。綱成様に任せるのが最適と氏康様は仰せです。」
綱成「かしこまったとお伝えしてくれ。綱成、
八幡大菩薩に誓って玉縄城・城主のお役目を全う致しますと。」
わしは綱成を信用し玉縄城を任せることにしたのです。
1543年になり、北条は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の北関東進出を図っていました。
そこへ北条と同盟を結びたいと言ってきたものがありました。
それは武田晴信でした。この頃、武田氏は信濃国進出を図っており、山内上杉家と敵対していたのです。
わしは武田晴信という男を見定めたいという気持ちもあり、利害も一致するので武田からの同盟の申し出を受けたのです…。
つづく…
にほんブログ村
にほんブログ村

