八幡の武将 〜義明に自信あり〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

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世は群雄割拠の戦国時代

わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。



1538年、我が北条軍は武蔵国の葛西城(かさいじょう)を攻め落とすと、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき)と安房国の里見氏(さとみし)は下総国の国府台城(こうのだいじょう)に入りました。

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国府台城跡(現在の千葉県市川市国府台付近)


ここで小弓公方についてコアラくんから説明してもらいます。


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コアラ氏康さんから指名されちゃった。

小弓公方は元をたどると足利将軍家の一族で初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)さんの四男・基氏(もとうじ)さんが鎌倉公方として関東に来たのが始まりなんだ。

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足利基氏

五代目の成氏(しげうじ)さんの時に関東管領の山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と争い、本拠地を下総国の古河に移し古河公方(こがくぼう)と呼ばれるようになったんだ。


古河公方三代目の高基(たかもと)さんには出家した弟がいたんだけど、その弟を担いで勢力を伸ばそうとしたのが真里谷氏(まりやつし)なんだよね。

真里谷氏は高基さんの弟を還俗させたんだ。これが足利義明さんなんだよ。義明さんと真里谷氏は下総国の小弓城を攻め奪い、義明さんは小弓公方と名乗ったんだ。

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小弓城跡(現在の千葉県千葉市中央区付近)

以上が小弓公方の成り立ちなんだけど、説明はまだ続くよ。

義明さんを担いだ真里谷氏は内部争いが起きて一方は義明さんと里見氏が付き、もう一方に北条氏が付いたんだよね。


説明は以上で〜す。氏康さんに返すね。

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国府台城に義明、里見義堯(さとみよしたか)ら1万が入ったのをみて、我が北条も動きました。

我が父・氏綱(うじつな)、叔父の長綱(ながつな、後の幻庵)、そしてわしも含め2万の兵が江戸城(えどしょう)に入りました。


綱成(つなしげ)も本隊に合流しました。





一方、義明、里見義堯は国府台城で軍議を開いていました。


義堯「北条は大軍。江戸川を渡っている途中を討ちましょう。」

義明「何を言うか!我は足利将軍家の一族。本気で我に矢を射かけるものなどおらん!」

義堯「されど…渡河中に殲滅するのが最上の策です。」

義明「ならん!北条を上陸させてから討つのだ!我が出陣して氏綱を討ってやるわ!!」

義堯「……(これでは負ける)。」


コアラ義明さんは武勇に自信があったんだよね。


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江戸川と国府台付近




ついに綱成の軍は先陣を切って江戸川を渡り始め、戦は始まったのです…。










つづく…
コアラ次回をお楽しみに〜