世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
玉縄城(たまなわじょう)では城主となったわしの弟・彦九郎(ひこくろう)が元服し名を為昌(ためまさ)としました。
さらに為昌に仕える綱成(つなしげ)の弟・弁千代(べんちよ)も元服し名を綱房(つなふさ)としたのです。
綱成は綱成と同じく為昌に仕えるようになりました。
元服が続き、めでたいことが続く綱成でありましたが1536年、綱成兄弟には関わりのあった今川氏(いまがわし)でお家騒動が起きたのです。
今川氏の当主・氏輝(うじてる)とその弟・彦五郎(ひこごろう)が相次いで急死し、後継ぎ争いが起きたのです。
後継ぎ争いは氏輝の母・寿桂尼(じゅけいに)の子で出家していた梅岳承芳(ばいかくしょうほう)と氏輝の異母兄弟で今川氏家臣・福島越前守(くしまえちぜんのかみ)が推す玄広恵探(げんこうえたん)との間で起きました。
我が北条は梅岳承芳方を支持し、この争いは花倉の乱(はなぐらのらん)と呼ばれました。
結果、梅岳承芳方が勝利し、梅岳承芳は還俗し今川義元(いまがわよしもと)と名を改めました。
敗れた福島越前守の一族は甲斐国に逃げましたが、武田信虎(たけだのぶとら)に殺害されたのです。
この報せを知った綱成は複雑な思いだったようです。
綱房「兄上、我らの縁戚・越前守が武田に殺されましたぞ。憎っくきは武田信虎!」
綱成「……今、我らは北条氏の一門。北条と今川は早雲公以来の同盟関係。恨みだけで動いてはならん。今は安房国の里見氏(さとみし)の動きから目を離すわけにはいかんしな。」
綱房「されど兄上…。」
綱成の心の奥底では「おのれ、信虎め」と恨みはありましたが感情を抑えていたようです。
1537年になり長年、我が北条の敵であった扇谷上杉朝興(おうぎがやつうえすぎともおき)が亡くなりました。
扇谷上杉家の新たな当主はまだ12歳の朝定(ともさだ)がなりましたが、これを見た氏綱は攻めに転じたのです…。
つづく…


