八幡の武将 〜花倉の乱〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

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世は群雄割拠の戦国時代

わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。



玉縄城(たまなわじょう)では城主となったわしの弟・彦九郎(ひこくろう)が元服し名を為昌(ためまさ)としました。

さらに為昌に仕える綱成(つなしげ)の弟・弁千代(べんちよ)も元服し名を綱房(つなふさ)としたのです。

コアラ綱房さんの綱は兄の綱成さん同様に北条氏綱(ほうじょううじつな)さんの一字をもらったんだよ。


綱成は綱成と同じく為昌に仕えるようになりました。






元服が続き、めでたいことが続く綱成でありましたが1536年、綱成兄弟には関わりのあった今川氏(いまがわし)でお家騒動が起きたのです。

コアラ綱成さん、綱房さんは元は今川氏に仕えていた福島正成(くしままさしげ)さんの子なんだよね。




今川氏の当主・氏輝(うじてる)とその弟・彦五郎(ひこごろう)が相次いで急死し、後継ぎ争いが起きたのです。


後継ぎ争いは氏輝の母・寿桂尼(じゅけいに)の子で出家していた梅岳承芳(ばいかくしょうほう)と氏輝の異母兄弟で今川氏家臣・福島越前守(くしまえちぜんのかみ)が推す玄広恵探(げんこうえたん)との間で起きました。

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寿桂尼です。氏輝亡き後は梅岳承芳が今川の当主にふさわしいわ。



コアラ今川氏は以前にも後継ぎ争いが起きたんだよね。その騒ぎを治めたのが北条早雲(ほうじょうそううん)さんなんだよ。


我が北条は梅岳承芳方を支持し、この争いは花倉の乱(はなぐらのらん)と呼ばれました。


結果、梅岳承芳方が勝利し、梅岳承芳は還俗し今川義元(いまがわよしもと)と名を改めました。

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梅岳承芳改め今川義元です。


敗れた福島越前守の一族は甲斐国に逃げましたが、武田信虎(たけだのぶとら)に殺害されたのです。

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武田信虎



この報せを知った綱成は複雑な思いだったようです。


コアラ綱成さんの父・福島正成さんを討ったのも武田信虎さんだったんだ。



綱房「兄上、我らの縁戚・越前守が武田に殺されましたぞ。憎っくきは武田信虎!」

綱成「……今、我らは北条氏の一門。北条と今川は早雲公以来の同盟関係。恨みだけで動いてはならん。今は安房国の里見氏(さとみし)の動きから目を離すわけにはいかんしな。」

綱房「されど兄上…。」

綱成の心の奥底では「おのれ、信虎め」と恨みはありましたが感情を抑えていたようです。





1537年になり長年、我が北条の敵であった扇谷上杉朝興(おうぎがやつうえすぎともおき)が亡くなりました。

コアラ朝興さんと北条氏は同盟したり戦したりと因縁深い関係だったね。


扇谷上杉家の新たな当主はまだ12歳の朝定(ともさだ)がなりましたが、これを見た氏綱は攻めに転じたのです…。














つづく…
コアラ次回をお楽しみに〜