その①とその②はこちら⬇️
1536年、今川氏(いまがわし)は当主・氏輝(うじてる)が急死、更に後継ぎの第1候補の弟・彦五郎まで亡くなりました。
後継ぎを巡り、氏輝と母(寿桂尼)を同じとする梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と側室の子・玄広恵探(げんこうえたん)が争います。
この乱は梅岳承芳が勝利し今川氏の家督を継ぎました。そして梅岳承芳は還俗し今川義元(いまがわよしもと)と名乗るのです。
翌1537年、今川氏は甲斐国の武田氏(たけだし)と和睦し、さらに義元は武田信虎(たけだのぶとら)の娘を正室に迎えたのです。
この今川氏と武田氏の同盟を見た北条氏綱(ほうじょううじつな)は激怒。
氏綱「今川は我らが対立している武田と同盟するとは!これで北条と今川の同盟は破れたわ!!」
怒った氏綱はついに駿河国に侵攻したのです。
今川義元は兵を出し侵攻を防ごうとしましたが氏綱は富士川以降の東の地域・河東を占領しました。
さらに氏綱は義元と反目している遠江国の堀越氏(ほりこしし)と井伊氏(いいし)と結び、今川氏を西と東から挟み撃ちにしたのです。
義元はどうすることもできず、河東の地域は北条氏が占領したままになりました。
これを「河東一乱」(かとういちらん)といいます。
今川氏と北条氏の戦いは長期化するなか、1541年に氏綱が亡くなり、その後を継いだのが北条氏康(ほうじょううじやす)でした…。
つづく…。


