私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。
(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)
早雲は1514年より三浦道寸(みうらどうすん)殿が籠城している新井城を兵糧攻めで追い詰めていました。
三浦勢はただ籠城するだけでなく、兵を出陣させ攻めてきました。
早雲がいる鎌倉近くまで攻めてくることもありましたが、早雲勢は押し返し新井城をじわじわと囲んでいました。
1515年には早雲の嫡男・氏綱(うじつな)に男子が誕生し、早雲はますます勢いがついてきたのです。
誕生した子は幼名を伊豆千代丸(いずちよまる)って言うんだよ。これが後の氏康(うじやす)さんなんだ。
一方、新井城の道寸殿は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)からの援軍を待っていました。
道寸「援軍はまだ来ないのか⁈ まだもめているのか⁈ 」
扇谷上杉朝良(おうぎがやつうえすぎともよし)さんは関東管領・山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)や古河公方・足利氏(あしかがし)のもめ事を仲裁していたんだ。
1515年に山内上杉家は山内上杉憲房(やまのうちうえすぎのりふさ)殿が家督を継ぐことになりました。
これで朝良殿は道寸殿の要請に応じ援軍を出したのです。
この報せは直ぐ様、早雲の元に入りました。
小太郎(こたろう)「御館様、朝良の軍が攻めてくるよ。大将は朝良の養子の朝興(ともおき)だよ。」
早雲「うむ。予想していたことだ。新井城の囲みは兵2,000を残し、玉縄城の北に兵5,000を送るのだ!」
玉縄城は背後の敵を抑えるために築いたんだよね。
そして1516年、早雲の送った兵5,000の軍勢は玉縄城に迫っていた扇谷上杉家の軍勢を見事撃退したのです。
これを聞いた道寸殿はいよいよ追い詰められたのです。
道寸「もう朝良様も当てにならん。兵糧もわずかしかない。この上は…。」
道寸殿の家臣は、
家臣「殿!殿と義意(よしおき)様は逃げてください。上総国に渡り再起を図ってください。」
道寸「何を言うか!そなたらを置いて逃げ出すなどわしにはできん!よいか!籠城し、兵糧がつきて餓死するくらいなら城を出て早雲の兵を1人でも討つ!」
その夜、道寸殿は新井城の兵を集め酒宴を開きました。
道寸「皆、聞け!明日、討って出る!これが最後の酒になるかもしれん。落ちたいものは何処ぞへ落ちよ。死んでもよいと思うものは討死し後の世に名を残せ!」
これを聞いた新井城の兵で逃げ出すものはいませんでした。
そして翌日、道寸殿は新井城の門を開け早雲の軍勢に突入してきたのです…。
つづく…
次回をお楽しみに〜