足利義教の死後、将軍になったのが義教の嫡男・千也茶丸改め足利義勝です。
幼年の義勝に政治能力があるわけもなく、管領の細川持之、持之が1442年に亡くなった後は新たに管領となった畠山持国や「嘉吉の乱」で功績のあった山名持豊、義勝の生母の日野重子が幕府の実権を握りました。
これでは義教が嫌った守護大名らの政治が復活、また義教が抑えた日野家が復権してきました。
義勝は1443年に急死します。死因は落馬、暗殺、病死等々の説があります。
義勝の後に将軍に就いたのが義勝の同母弟の三寅でした。
義政は1449年に将軍となりました。
当初、義政は祖父・義満や父・義教のような将軍専制をしようとしました。
関東で起きた「享徳の乱」に積極的に介入したり守護大名に対抗する将軍親政の強化しようとしたりしました。
しかし!
生母の日野重子や義政の正室・日野富子の実家・日野家や側近、守護大名らが政治に介入し義政は実権を握ることができませんでした。
政に嫌気がさしたのでしょうか、義政は政を側近や管領に任せるようになり、自らは趣味の世界に入ることが多くなりました。
守護大名の斯波氏や畠山氏では家督相続の争いが起き、また足利将軍家でも義政の弟・義視と義政の実子で母が日野富子の春王(後の義尚)の間で後継者争いが起きました。
それぞれの2つに分かれた勢力がそれぞれ結びつき守護大名の幕府権力争いも結びつき…戦になります。
それが応仁の乱です。
つづく…



