俺らは義満の子 〜義教、意気揚々〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

前回まではこちら⬇️



私、足利義満の娘・智子です。


話は前後しますが……延暦寺炎上の前年の1434年、兄・義教はついに世阿弥殿を佐渡へ流罪にしました。


巷ではなぜ世阿弥殿が流罪されたかと疑問でした。


しかし私は知っていました。
世阿弥殿の子、観世元雅殿が南朝の残党に暗殺され、その残党が南朝再興のために働くよう世阿弥殿を脅していたのです。

コアラ観世元雅さんは南朝の残党が潜んでいる伊勢国で急死したんだ。世阿弥さんは元は南朝方だったんだよ。


義教は世阿弥殿の猿楽より音阿弥殿の猿楽を好んでいましたが…


義教「世阿弥の芸は認めておる。ただあやつは今後、南朝の残党に付くかもしれんし、殺されるかもしれん。世情不安な中、京にいては危うい。幕府のためにもあやつのためにも流罪とする。」


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世阿弥です。佐渡に流されました。致し方ありません。


世阿弥殿は1443年に亡くなったそうです。





1435年、義教は延暦寺との決着をつけ意気揚々としていました。


その年の8月、義教に次男が誕生しました。

母は側室・小弁殿。

生まれた次男は前例に習い、出家し清久と名乗りました。この清久が後の足利政知です。

コアラ足利将軍家は後継ぎの嫡男以外は出家するのが習わしだったんだ。義教さんも最初は出家してたんだよ。




そして1436年1月、義教と義教の嫡男・千也茶丸の母・日野重子殿の間に男子が誕生しました。義教にとっては三男となります。

幼名を三寅、後の足利義政です。

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どうも、足利義政です。後にわしのせいで大乱が起きました。



日野重子殿は千也茶丸ばかり可愛がり、三寅は寂しい思いをしていました。

この時の思いが三寅の目を現実から逃避させることになったのかもしれません。


コアラ三寅ちゃんが後に将軍となり、その治世の時に「応仁の乱」が起きるんだ。




義教は次男、三男と子を授かり、さらに意気揚々となりました。






その頃、鎌倉では鎌倉公方・足利持氏殿が企みを行動に移し出していました…。












つづく…
コアラ次回をお楽しみに~バイバイ