私、足利尊氏の妻・登子です。
後醍醐天皇様が吉野に独自の朝廷を開き、京奪還の戦を仕掛けてきました。
その命を受けた新田義貞様は越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入っていました。
この金ヶ崎城を北朝方の斯波高経殿が包囲し、兵糧攻めを行いました。
1337年。夫は金ヶ崎城攻めに執事・高師直の兄、師泰を大将とした援軍を斯波高経軍に派遣しました。
義貞様は自らの援軍を求めるために金ヶ崎城を脱出しました。
2人の親王様らが残った金ヶ崎城は北朝方に攻められ、兵糧攻めで疲労困憊の城兵は次々に討ち取られ金ヶ崎城は落ちました。
義貞様は金ヶ崎城に帰ることができず、義貞様の弟・脇屋義助様がいる杣山城に居を移します。
夫は義貞様の勢力が弱まり、次は奥州の北畠顕家様を危惧していました。
顕家様は霊山(福島県相馬市、伊達市)にいましたが京を攻めるとなると途中鎌倉を通ります。
私は不安になりました。鎌倉には我が子、千寿王がいたからです。
千寿王はまだ幼少、家臣が補佐しているとはいえ、あまりにも不憫でなりません。
私「殿、北畠勢が京を目指すため、鎌倉を攻めたら…千寿王は大丈夫ですか?」
夫「千寿王には上杉、桃井ら家臣がついておる。」
私「千寿王はまだ幼少。小さい頃から戦場に出され…母として不憫でなりません。」
夫「千寿王は足利の嫡男ぞ。…万一の時は鎌倉を捨て逃げよと家臣らにも命じておる。心配いたすな。」
そして…北畠顕家様がついに京を目指し奥州を出発しました!
つづく…

