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新田政氏の氏は足利氏当主の名前から頂いて、元服の際、足利氏を烏帽子親としています。
つまり新田氏は足利氏に庇護されているのです。
残っている史料によると鎌倉幕府末期の頃には新田氏は足利氏の庶家のように見られていました。
新田氏は政氏の後、基氏ー朝氏ー義貞と引き継がれていきました。
新田義貞は足利高義の義の字を頂いています。
高義に関してはこちら⬇️
義貞の頃は新田氏の幕府における地位は低くく、北条得宗家・北条高時は義貞のことを「貞義」と間違えるほどでした。
新田義貞が鎌倉幕府を倒すため、新田荘にある生品神社で挙兵した時、わすが150騎でした。
その後、各地から参戦した軍勢を加え7,000騎まで増えました。
さらに足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)の手勢200と合流します。
すると各地から膨大な数の兵が集まってきました。
「古典・太平記」はその数を20万騎としています。
兵らは新田ではなく源氏の棟梁・足利氏を慕って集まってきたのです。
新田義貞は後にこのことに深く傷つくことになります。
鎌倉幕府は倒れ、こうして新田氏は鎌倉時代を生き抜きました。
辛うじて生き抜いた…といった新田氏でした。
この後、新田宗家は足利氏と争い滅んでいきます。
しかし、新田氏の庶家が残っていきました。
終わり…次回作をお楽しみに~


